ご披露ほ、日時・場所・内容の説明ほもちろん必要であるが、もう一歩突っ込んで、その精神をつけ加えてもらうとよいと思う。「‥‥ということです。」とか、「‥‥だそうです。」というご披露をする人がある。きいている人びとは、どういう風に感じられるでしょうか。
なんとなく、空ぞらしさを感じて、他人様のことで、私には責任はありませんよ、頼まれたからご披露しているのですよ、というような心ではないのかと思われる。形式的ではなく、私自身のことにかかわる大事で、ぜひ理解してもらいたいという、気迫のこもったご披露をしてほしい。
内容をよく理解したご披露は、きいていても安心である。あやふやな表現であると、きいている方でもハラハラしながら、きいているので、聞くにたえないような気にさえなってくる。きいている方から、逆に質問されたり、修正されるようなことでは、見ていられない。ご披露の御奉公は、御法門についで重要な役目であるから、もっと研究して心をこめさせて頂くべきものである。
ご披露の原稿作成して、それを読む人もある。勿論、それであやまりはないのであるが、もう一歩、そのことに関しては、どんな質問にも応じられるよう、事前に研究してほしい。
逆に能弁な方は、しゃべりすぎる傾向がある。ご披露のわくを超えて自分の宣伝となったり、長すぎたり同じことの繰返しであったりして、過ぎたるは及ばざるが如しという例もある。
要領よくまとめて、長からず、短かからず、しかもわかりよいご披露がききたいものである。声のよい人・態度のよい人・精神をよく理解している人など、よいお手本も沢山ありますから、人のするご披露を学んで、上手になってほしいものと念願している。
昭和56年3月発行 乗泉寺通信より