「あまだれ石をうがつ」のことわざのごとく微力なものも、これが積もると大きな力になるものです。「成仏は持つにあり」で、持つとは持続すること、続けなければ所願は成就いたしません。世間のことも同様、「石の上にも三年」です。ですからどうしたら持続するかを考えて、その工夫が大事です。信心も毎日信心持続の誓願を立て、その達成を一心にご祈願するようにならねば本物ではありません。そして、いわゆる薬種信心にならぬよう用心することです。
「天に従うものは存し、天に逆うものは亡ぶ」と、孟子の言葉にありますように天道を無視し、それに逆行するものは結局亡び去りますから、永続きしようと思えば、悪事を断固排除して、人を泣かせるような行為は慎んで世を渡ることが肝要です。
また、御教歌に、「はなつ矢の弓いる程はのばれどものぼり果てなばおつといふなり」とあるごとく、満月のごとく引きしぼって力一杯放った矢も、その力相応の高さには行きついても、限界に達すればそこから真っ逆さまに落ちてきます。次から次へと続けて力を加えることができなければ、ある点までは昇ってもそこが終点で今度は転落し始めます。兎と亀のかけ比べのように、とかく力のあるものは一気珂成に突進するかわりに疲れが早く、あるいは優越感にひたって気がゆるみ、道草をくって目標を忘れたりして時間を空費しがちです。その間に微力のものがコツコツと追い越すことがあります。ですから手腕のあるなし、力の強弱よりも、むしろ持久力の有無が成功の鍵です。
それでは今度ほ、人間はコツコツと不眠不休でいつまでも物事を続けられるかという問題ですが、これはできない相談です。適当の休養はぜひ必要です。夜の熟睡が明日の活力となるのですから、休んでも次つぎに手順よく立ち上がる工夫が上手ならば持久戦は勝つのです。
教化運動でも一戸の教化がようやくできて、御本尊の奉安が終わっても次から次へと親切心を奮い起こして育成の手を積極的に打つことが肝心で、これでよしと中途半端で手を抜くとせっかくの教化子も育たぬことがあります。
また、上手に立ち上がるには、その前の休み方がうまくないとだめですから、そこにもおおいに工夫が必要です。立つ鳥あとを濁さず式に、よしや失敗しても他に迷惑を少なくする努力がなされてあれば、再起の機会が多く恵まれますが、下手に悪あがきをしていっそう信用を落とすと、なかなか再起が困難になります。ですから休みの方の工夫を上手にして次に起き上がりよいようにすることも大事です。
当宗の信心は、朝は御題目で始まり夜も御題目で休みます。始終ともにこれほど立派なものはありません。その繰り返しが修行ですがそこに大事な教訓があるのです。
日晨上人要語録より