御教歌
罪深き 人といふのは 仏説を かろしむる故 信ぜざる也
私どもは、常々、ご信心の修行によって自らの罪障を消滅していかねばならない、とお教え頂いております。お看経のたびごとに「無始已来謗法罪障消滅」とお唱えしますように、凡夫は誰でも、前世から、上行所伝の御題目のみ教えに背いてきた罪を背負っているのです。
方便(仮)の教えを捨てて真実の佛立信心をさせて頂くことが、この罪障を消滅出来る唯一の道なのです。しかし、罪障が深いということを自覚するのは、なかなか難しいものです。私どもは、物事が自分にとって都合よく進んでいる時には、油断をしてしまい、反対に、思うようにいかない時にはあきらめてしまいやすい傾向があります。
そのため、せっかく御題目口唱に励みながらも、不平不満を言ったり、我を張って自分の考えを押し通したりしてしまうことも少なくはありません。このように、末法の凡夫は、罪障の故に仏様のみ教えをなかなか素直に受けられず、結局煩い悩むことが多くなってしまう、という悪循環を生じやすいのです。
これを解消するには、まず、お懺悔をさせて頂かなければなりません。私どもの罪障は、自分でも意識することができないほど奥深いものでありますから、毎日「無始已来謗法罪障消滅」とお唱えし、御題目口唱を重ねることによって、自分には間違いがない、という慢心を抑えてゆかなければなりません。そして、素直な心でお参詣、御法門聴聞、そして化他行へと気張り、また、職業等世法の面も全て信心増進につなげてゆく工夫が必要です。
例えば、重病で医師に見離された人が、決定してご信心一筋に励んだ結果回復した、という場合などは、信行の功徳による定業能転としか言いようがありません。「道の源、功徳の母」と言われるご信心に全てがつながってゆけば、善い種が善い結果を導くという望ましい循環の輪の中へ入ってゆけるのです。
開導聖人はお書き添えの御指南に
「謗法を佛説に背きながら懺悔改良せざる所は、諸天のにくみ給ふところ也 故に守りなし」と仰せになっています。み教えからはずれているようなあり方を懺悔、改良させて頂かなければ、御宝前からご守護を蒙ることもできるはずがありません。
私どもは、あらゆる事象を信行へと結び付けるならば、現世における御利益、そして臨終の際の寂光参拝という大果報を頂戴できるのです。せっかくそのような最高・真実の御法にお出会いしたのですから、どのような時でも懺悔、改良を忘れず、罪障を消滅し功徳を積んでゆくため、み教えの通り精一杯御奉公に励まさせて頂くことが肝心です。