日晨上人御法門

御教歌     かはるなり おなじみのりを いのれども 願ふこゝろの ふかさあさゝに 

信心をさせていただいても、おなじ御題目を唱えても、あるいは、こうやってお参詣をなさっても、その中にやはり信心の上では、厚薄の差別がある。厚い志し、いいかげんな気持ちというものがあるのでございます。

その心のこもってるのと、こもっていないのとでは、やはりそこに自然と結果において違いが出てくる。一緒にお参りしてるからそれでよろしいんだというのではございませんで、やはり気持ちをあらたにして改良するとかですね、もう一つ志し深くやらせていただこうという心になってやるとか、そういう心の上の改良からはじめまして、あるいは体でのご奉公でもそうですが、そんなのも少しまめにさせてもらうとか、そんなふうに改良して進めていただきますと、それだけ違った結果が出て来ます。 

同じようにやっている、いわゆる種まきをしているようでも、その種まきの内容によって、報われるものが違ってくるのです。これはもう当然のことでございます。けれど私たちはそう思いつつも、やはり志しの点を、改良させていただこうということを、ある場合はおろそかにしてしまい、形式的にやって、そうしてこれでいいもんだと思う場合もございます。 

まあこんな例は当たるかどうか分かりませんけど、たとえば、私たちがお講に参りますね、そうするとまことにありがとうございますといってお礼を言われる訳でございます。その時なんかでも、お母さんによりますとね、小さい子供なんかをずらっと並べて一緒にお礼をさせる家がございます。よほどやはり心がこもってると。ご主人があまりしないんですけれど、お講の時は、そこへ連れて来て、そしてご主人にお布施なんか出させる。なんていう所もございます。苦労していらっしやいますよ、そういう奥様は。中にはうるさいからもう追い出しといて、留守の間にお講をつとめとこう、なんてところもある。いろんなのがあるんですよ。そうするとそれによってですね、家の人のことを考えてやってるなとか、法灯相続をさせようと思って、心をくだいているなとかいうことが、ちょっとそのようなことでも分かるんですね。 

ですから志しのあるなしというようなことが、何かちょっと、ご信者同士でこうやって表われてくる。「色外に現わる」という言葉がございますよね。何かにこう表われてくるものなんですよ。ですから同じに見えてもやはり志しのある人とない人とでは、薄い厚いといいましょうか、違いがあるんです。 

折角なさったんですから、そのいい方へ行っていただくことが、改良ですから、そういう点をこう考えて、私の今やっているやり方は、はたしてお役に立っているのかどうか、一口にいえば、ご弘通でございますけれども、家のために本当になっているのかどうか、家の家族の人達の為に私のやっている信心の仕方で、お役に立っているかどうか、そういうような点は考えていただきたいと思います。 

よく外に出てご奉公なさっても、家のことなにもしないというような………。主人なんてほっといてですね、子供のことなんかも知らん顔なんていうようなやり方やっていて、はたしてその家にいい信心前が残っていくかどうか、法灯相続とかいろいろいうようですけれども、果してそういうことに心を配っているかどうか、そういうところで、変わりがでてくるんでございます。 

それでいい方へいい方へと変わっていくということによって、変わりが出てくるぞということを、お示しくだされた御教歌でございますから、これは、うまくいっている人なんてありゃしないんですよ。だから私はいいなんて思っていただかずに、どっか悪い処がありゃしないかと思って、改良をしていただくことが、信心が更に楽しくなってまいります。そういう点をおすすめくだされた御教歌です。 

思い出の妙証山録より


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