「人のいふすきこそ物の上手なれ きらひな道は足もすすまず」と御教歌にありますが、好きで好きでたまらぬという愛情が、する仕事を、自然一生懸命にさせ、上達させるのです。
それが逆に嫌いなことは、得だとわかっていても手を出しません。ふだん、損得の勘定ばかりで働いているかに見える人も、実際は好き嫌いの感情に左右される場合が多いのです。日
蓮聖人や御門下のごとく、名聞利養を超越して妙法の布教に愛情が持てたならすばらしいナと思います。品物でも好きなものは大切にしますし、本当に好きならその品物に関する情報などを聞いたり読んだりすると、それをドンドン吸収して、その知識がますます深く広くなります。
ところが嫌いなものに対しては、鼻もひっかけません。ですから進んで研究もしませんし、それを大事に守る苦心も払いません。裏側の裏側まで知り尽くす努力はむろん、美点を生かす工夫も、欠点を補う方法にも手をつけませんから、ほとんど無知に等しい状態となります。
日蓮聖人は、
「妻の夫を愛むが如く、夫の妻に命をすつるが如く、親の子を捨てざるが如く、子の母をはなれざるが如し」
と、信心の底にほ愛情が必要だと説かれたものですが、愛情の欠けた信仰は、絵にかいた餅です。
「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまざれ」
との御経文も、一心に仏のみ心そのご修行ぶりのすべてを知りたいとの愛情で信心に打ち込めという意味で、通り一遍の信心では仏の慈愛もお力も知るよしなしです。
ですから、好きこそ物の上手なれ式の信心に突入できたら、ご奉公ぶりも上達し、真剣に弘通の道を考え、どういうやり方がご本意にかなうか虚か実かの分別もつくようになります。
現在熱がこもっているらしく見えても、可否の判断がよくできない程度の力の入れようでは、ときには、心ある人の物笑いの種になったり自分でもフタをあけたらカラッポなのに気がついて、しまったと思う結果が出るかもしれません。
しかし、その程度の因果応報の判断なら、だれでも少々気を入れればできますが、信心のまことの功徳の有無の判断ほ「今生の影が未来へうつるなり」という未来かけての因果関係を標準にしたものですから、スケールが大きく、未熟な信心では考え及ばぬ境界で、たいへん理解がむずかしいのです。
強盛な信心、深い愛情のこもったご奉公で声なき声を聞き、形なき形を見る心が大切で好きこそものの上手なれを積み重ねて、仏心のいただき方が上達しないとだめなのです。
そして弘通の将来の見通しに立脚して、現在のやり方を真剣に反省するほどの御法に対する愛情の心がないと、急テンポの現代に適応する教化の道は開拓されません。好きで好きでたまらぬという愛情から、見えないことが見えてきて、其の功徳の道がわかることを一言したしだいです。