創造ということ

ご弘通の方針をたてるときに、その立案の責任者は、いろいろと苦心をいたします。どういう方法が、よりよい成果をあげうるか、妙策はないものかと、度々、会議を召集して、みんなの意見をきくようになります。

最近は、その問題とは、全くかかわりのない外部の方々に、自由な立場から考えてもらう、シンクタンク制(考える集団)をとりいれる会社や、研究機関が増えてきているようです。

はげしい競争に生きぬくためには、一歩でも、他社より進んだ新しい方針を、打ちだそうと真剣に取り組んでいるわけです。弘通の問題もまた、同様に、シンクタンク制を採取して、思い切って、新しい方法、創造的な方法を発見しようと、当局の人も、考えていられる。

物質科学の進展によって新しい物質が創造されることは、相当、各方面で試みられているが、人間の生存をおびやかすようなものは、いくら創造されても意味がありませんから、やがて、その方向は異質なものを承認しないという人類の英知によって自然淘汰されるでしょう。

ここで問題にしたいのは精神的な面の創造は、果たしてありうるだろうかということです。創造的なこと、あたらしいことだと、自己満足する前に、先輩の行積をよく研究すると、どこかに、先輩のあゆんだ道の中にヒントがある場合が多いのです。

殊に、万法具足の大法であります。その妙法の中に、時代に即応した弘通方針も内包されているのです。信は道の源ともいわれるのですから、妙法の中に弘通の道、ありとするなら、信こそ、創造の鍵ともいえるのではあるまいか。

(乗泉寺通信48年2月号掲載)

 


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