年寄りっ子は三文甘いといわれる。目に入れても痛くない孫にたいして、きびしい躾けなど要求する方が無理な話である。
親は子供にきびしい要求をしたい。どんな困難にも、へこたれぬたくましい生活力を身に付けてやりたい。当然、親と祖父母と、微妙な差異があるのはやむえない。
子供は、その微妙なちがいを察知して、自然甘やかされる方へ傾斜していく。これも人情というものだろう。所詮、一人立ちしたとき、甘やかされたものと、きたえられたものとの差は歴然とあらわれる。
横綱の胸をかりて、きたえられたものと、仲間同士の稽古とでは差があろう。お互い同志には、妥協の甘さがあって、きびしさがないからだ。しかし横綱の胸をかりても、必ずしも、いいとは限らない。
胸をかりるという言葉にもある通り、所詮は、自分自身の工夫と研究に帰するのである。いくら横綱に教えられても、おんぶにだっこというように、一から十まで甘えていたのでは強くなれない。横綱は、相手の中から出てくるものを引き出す、産婆役にすぎないのである。
語学の勉強も例外ではない。どんな名誉教授についても、受身で教えられている間はものにならない。積極的に、自身で意欲を起こさない限り、お嬢さん芸の域を脱しきれない。
「心、仏、及衆生、是三無別」といわれているが、いわば、仏の胸をかりて、仏になろうというのが修行である。修行である限り、甘いものではない。
末代の衆生を救済する仏の慈悲の広大さに、甘えすぎている傾向がありはしないか。法華経の修行は、少しはきびしいことを知ってほしい。日本人全体が、稍々、甘えん坊になりすぎている。世界のきびしい視線を知らねばならぬ。
(乗泉寺通信48年9月号掲載)