信心の固め方

昔からわが国に、「読書百辺意おのずから通ず」という言葉があります。ご存知とは思いますが、その意味のわかっている人は、はたして何パーセントいるでしょうか。本は読めても著者と読者では力量に相違があり、一ぺんぐらいの読書ですぐ内容の理解はできないはずです。

ですから読書は百ぺんの繰り返しが肝要と教えたのです。しかし実際は、一ぺんくらいの読書で、これはムズカシイと投げだす人があったり、また一方、多少理解力のある人だと一ぺんでわかりましたと繰り返しをしない人もいます。

その人に対し、読書というものは、何べんも繰り返さないと本当はわからぬもの、一ぺん読んだくらいでわからぬと投げ出すのはむちゃ、また、わかったと早合点する人は軽率で、いい気なものといえます。実際一応わかったとしても、本当の理解は難事と心得て、さらに読みを深くするため、折を見ては何回も繰り返しが大切という「ことわざ」です。

世の中は何事もよくわかってやっていることは稀で、ことに専門外のことは人まねでお茶を濁している程度、理論なんか知ろうともしません。自然それが習性になって、もう一つ掘り下げる探究心のうすい人が大多数です。しかも困ったことには、そういう人達にかぎって説明でも聞くと、簡単にわかりましたという人が多いのです。

たとえば、当宗の信心はと問われると、いろいろの答えがあります。「信伏随従」もその一つ。しかし、その答えの内容を分析すると相当複雑なものが含まれています。仏教の中では上行所伝の妙法を中心とした本門法華経に信伏すること。日蓮聖人を大導師として、そのご指導に随従すること。また、その教えに反する教えや思想や主義に従ってはならぬという意味もありますし、身、口、意の受持行の中では、ロ唱を中心にせよという意味もこもっています。

ですから信伏随従とか素直な心といっても「人の言葉を用うべからず、仰いで金言を守るべきなり」という凡夫考えを去って大法に従う素直さです。それが、一ぺんの説明でわかるはずはありません。すぐわかった顔になるのはどうも軽率というよりいいようがありません。

将棋や碁には段位があります。だいたい初段で一人前だそうですが、その初段になるには初段一万回で、一万回もやらねばということです。ですから、信伏随従の信心を、あらゆるご奉公で試してみて、いつの場合でも私心を去ってやれるようになれたら、一人前でしょうが、それには年月をかけての体験が必要です。

それを早合点してよしとするのは、御経力の援護に甘えて一人前だと錯覚したのです。また、頭でわかっても、ご奉公の腕前は別という面もありますから、読書百ぺん式にご奉公の実践を繰り返して、あらゆる場合に活用自在の信心の根固めをすることに努力してください。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください