為さざるなり能わざるに非ず

為さざるなり能わざるに非ず (孟子)

なにかの問題に直面すると、勉強不足が身にしみてわかる。屋根の漏りは雨がおしえるという諺のとおりである。

勉強とは、①精を出して仕事のことに打ち込む。②学問に身を入れる。③商品を安く売るという説明が辞苑にのっている。わかっているつもりでも、しらずしらずのうちに不勉強になっている。

受持・所属内の信者のことは、上に立つものはよく知っていなくてはならない。きかれても、サア?という返事しかできないようでは、勉強不足と思い知るべきである。

新録のきれいな季節である。庭にでる折りも多くなった。すずらんに似た多年生の草花が「えびね」という名とは今まで知らなかった。不勉強というほどの問題ではないが、しかし、庭にある植物の名ぐらいは心得ておきたいものと感じた。一寸気をつけて勉強すれば、たいていのことは身につけることができる。

大山をこわきにかかえて大海を渡れ、といってもそれは無理な相談である。けれど、長老とか先輩のために、小枝を折ってささげることは誰にでもできることである。そのことさえ、出来ぬというのであれば、出来ぬのにあらずして、せぬというべきであろう。人生の大半において、できることをしないで不知といい、消極的になっていたのでは、恥ずべきかなというべきであろう。

不勉強は、結局、わが怠りというほかはない。この怠りのために、どれくらいの損を招いているか想像をこえたものがあるに違いない。

のみならず、他人に罪をつくらせる結果にもなりかねない。勉強という字そのものの意には、労して、更に力を加えることという意味で、楽をして、えられるものは、因果応報のみじめなむくいのみと思い知るべきである。

乗泉寺通信 昭和53年6月号より


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