御利益の広さ

色や形のあるものは、簡単に判断ができます。香りや味は目に見えなくとも、鼻や舌でわかります。他人の心となると、わかったようで、よくわからぬものです。眼・耳・鼻・舌などで感じ取れない対象だからでしょう。親切な人情を売り物にしていた人が、冷血漢であったり、ハイカラぶっている人が、考え方は時代遅れで意外に思うときがあります。

古歌に「落ちぶれて袖に涙のかかるとき 人の心の奥ぞしらるる」とあるように、人の心の奥底は特別の事情にふれないと、表面化しないので、平常はうかがい知ることが困難なのです。菩薩心なども深層にひそんでいるらしく、それが表面に出て活躍してくれたら、たちまち功徳が積めたのにと、悔まれるときがあります。

妙法の御利益も、広大無辺で、私どもの眼力で隅々まで見極められませんし、奥行きも想像できません。ただ、ホンの一部分を感得して、わかった顔をするだけです。しかも、その感得できる範囲は、病気や商売が好転したときか、災難をのがれた場合などで、目に見えるときがおもです。

中には精神的な面で感じたり、教理や、修行の道筋で、随喜する人もありますが、概して、いわゆる現証の御利益で随喜の心を起こす人が多いのです。ですから、現実に、お願いの目標を持ち、あるいは誓願のある人が、場数を踏みながら信行を重ねると、次から次へと、広く、深く、いろいろの御利益を感じます。それに反して、信心第一といいながら、日常の働き方などが安易な道を選んだり、横着だったりすると、だんだん御利益を感ずる場面が縮小されます。

月の光は、いつも変わりなく地上を照らしていますが、眺める人の立場によって感じ方に相違ができます。大海とか高山で見る月、春の夜の霞んだ月、秋空の澄んだ月、一人ボッチで見る月、愛人とでも見る月、すなわち場所や時や景物の違いで、千差万別の情趣を味わうことができるように、御利益も私どものあり方で、いろいろの妙味を体得できます。それで当宗は生活建直し運動を展開し、それを通じて、より広く深い御利益を感得しょうと試みているのです。

信者は不思議な心の持ち主であり、相手方の妙法も底知れぬ御利益の持ち主です。その信者側と妙法側の両岸を結んで御利益の受け渡しをする掛け橋が信心ですから、これまた、広げればいくらでも広がり、結び方は深くも浅くも自由自在です。

それが信心の性格ですからこれでよしと閂を入れるのは信心の本質に背きます。慢心や僻怠が御利益のいただけぬ障りとなるのも、信心増進を停めるからです。

したがって信心は、次々に目標の建直しをして、中絶することなく、精進することが大事で「願ふことなしと思へば怠りぬ」ですから、無目標になって、信心の掛け橋が痩せ細らぬよう警戒すべきです。


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