信者の生活(1)

信者の生活と、一般人との相違点とか、特色の違いなどを知ることは、信心を助長する上に大事な要素だと思うので、それについて列記してみます。 

まず、第一の特色は、御宝前中心の暮らし方です。平常は特別に、これが自分の生活の中心だと考えている人は少ないと思いますが、一例をあげれば父親か、母親か、家の戸主か、あるいは子どもかだれかが、中心の座にいるものです。 

「ウチほカカア天下」だと細君中心を公言する家庭もあれば、宗教とか、先祖伝来の家憲が中心となって動いている家庭もあるでしょう。人間の生活には、どうしても中心になる柱のある方が運営しやすいとみえて、自然、中心的存在を設定するのでしょう。 

したがって、その中心を見つめれば、その家庭の色合いや、動き方がだいたい見当がつきます。むろん、中心のないテンデンバラバラの家庭もありますが、それは例外として、中心は何かという観点で考えれば、信者ほ御宝前中心の生活でなければ、信心第一とは申せないのです。そこで御宝前中心の生活とは、どんな生活かを信者は常に考えておかねはなりません。 

御教歌    いきています仏といふは信心の まなこでおがむ利益也けり 

と、御教歌にお示しのように妙法の御本尊は生身のみ仏で常に私どもを見守ってまします。そのみ仏が信賞必罰を厳然と行なわれることを信じ、陰ひなたなく、骨惜しみなく、お喜びをいただこうと心がけて、日々を暮らすのが信者というものです。知識の有無貧富の差などは超越して、御宝前のおぼしめしに同化(とけこむ)する信心第一の生活に徹したいものです。 

信者の生活は、妙法の御利益を常に感謝しつつ暮らすものでなければなりません。一般的に見ても、感謝の心の強い人は、不平不満を解消する妙手を早く考えつきますが、感謝の念のうすい人は、傾いた土台に立って物を見るように、正しい姿のつかみ方がうまくまいりません。したがってものを活かす考えが浮かんできません。その間の呼吸がわかると、感謝の生活のありがたさが了解できるのです。 

しかし、一般にそれがなかなかわかりにくく、すさんだ気持になりやすいのです。要するに相互間の差を物でばかり見る結果、かくれた力などが見えず、物質的差別にこだわって満足感が起こらず、また貧欲のために欲求不満になりやすく、しかも世間には不満の声が充満しているので、ついつりこまれて不平をいう癖がついて、感謝の芽が日の目を見ないでツボミがちになるのです。 

ところが信者の場合はそういう環境にあっても、信心が増進すれば、妙法の御利益をいろいろのかたちで感得ができ、自分の使命感も悟れるので、物の裏づけがない場合でも感謝の心が持続でき、それが万事の活力の元になります。このありがたい感謝の心を起こさせるのが信心の徳なのですから、信者はそのよさを忘れず、感謝の生活を築くことを忘れぬように。 

日晨上人要語録より


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