竜ノロ法難記念日、9月12日は、毎年やってくる。日蓮門下なら、この日が高祖日蓮大士ご自身のためには、どれほど大きな意味をもつ日であるか、知らぬ人はあるまい。
しかし、われわれ門下は、自分の立場から、お祖師さまを仰ぎみるばかり、お祖師さまの立場に、われわれ自身をおいて考えようとしない。それ故、どうしても形式的な行事でお茶をにごす程度のやり方で、この意義ある日をやりすごしてしまっている。
開目抄に「日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑の時に頸をはねられぬ。此は魂魄佐渡の国にいたりてりて云云」とのペられている様に、日蓮聖人ご自身は、頸をはねられぬという表現をされ、即座に生れ代って佐渡の国に至るというご述懐である。
凡夫日蓮から法花経の信者、上行再誕なりという確かな自覚が、竜ノロの法難をさかいとして生れたのである。日蓮が弟子旦那も、この日を毎年生れ代りの記念日として受取っていくぺきではなかろうか。
ご利益感得しても、それをわが信心のよろこびとしてとじこめている間は、小乗的な信からぬけでているとはいえない。そこから一歩前進してそのよろこびを他に伝えて、伝教に役立てたときに、摂受的信心から折伏の信者に生れ代ったといえるであろう。
日蓮が弟子旦那も亦、この日こそ摂受から折伏にどれ位、きりかわったかを確かめる日であってほしい。
毎年の竜ノ口御法難記念日に、真の魂をいれて、意義あらしめるものは、他でもない、信者一人一人の受け方次第である。今年こそ、そういう受け方をして、自らをきりかえてほしいと念願している。
昭和58年9月発行 乗泉寺通信より