お教化の御奉公を通して感じたこと

ありがとうございます。私は母の死をきっかけに平成3年に入信致しました。初代の信者ですから、私の身内や友人知人には、ご信者さんは一人もおりませんし、ご信心のことは何もわかりませんでした。それでも、私の周りには、次々と佛様に助けて欲しいと感じる人達があらわれ、その度に入信のお手伝いをさせて頂いておりました。その事が後になって、お教化の御奉公だと知りました。 

このようにして毎年、お教化は出来るのですが、その中には残念ながら辞める人もおります。代々のご信者さんからは「あなたはお教化だけしてたらいいの。」と言われて、仕事等で日常に追われている私はご信心とは、そんなものかとも思っていました。また、入れるだけ入れて結局は育てられないとの非難も受けました。 

勉強不足の私には、どうすることも出来ません。そのうち私自身がご信心を辞めたいと思うようになって来ました。一般社会の組織の中で生活している人間には、ご信心の世界で生きる人との感覚にズレを感じるようになったからです。それでも、コツコツと長年に亘って御奉公に励んでいらっしゃるご信者さんの姿を見ると、自然と頭が下がり、辞めたいという気持ちをなんとか抑えておりました。 

当時、私には5人程、教化子がおりました。信心が後退している私にはこれ以上どうすることも出来ないので、それぞれ近くのお寺へ移っていただくことにしましたが、私は母親と主人が世田谷の納骨堂にお世話になっているので、他寺院へ移ることはしませんでした。 

その間にも佛様へすがりたいという人達が次々とあらわれました。ふらつく私に入信したいという人が、お寺へ連れていって欲しいと呼びかけます。私もお寺の事を話した責任上、本堂にお参りすることをお勧めします。この様なことが重なり、気が付いたら又も何人かの教化子が出来ておりました。恥ずかしながら、自分自身がご信心にあまり励んでもいないのに、どうして私に救いを求めてくる人がいるのか。その原因を知りたいと思うのと同時に、自分の教化子の為にもと、平成21年に班長のお役をいただくことにしました。 

その後も平成22年に4人、23年に4人とお教化を成就させて頂くことが出来ましたが、中には辞める方もいます。家庭の事情がそれぞれありますので、無理には引き止めませんでした。現在は8人の教化子がおります。一度、離れて戻って来た人達もいます。しかし、これまでの私の信心前では、育成も疎かになり、また新しい人達をお教化することも難しいと考えていました。そこで今年より、部長のお役を思い切ってお受けさせていただくことにしたのです。 

これで御弘通の道が開くと思いました。お教化の御奉公を通して、自分自身の信心増進と信心改良が計れ、ふらつく私の信心前が少しずつ定まってきたように思います。御法門を聴聞させて頂く機会も増え、以前に、連合内のご信者さんから頂戴した厳しいお折伏も、今では自分を育てるための言葉と受け取れるようになり、ご信心に喜びを感じられるようになってきました。この内面の変化、思い方や受け止め方の変化、心の充実が私にとって大きな喜びであり、御題目口唱の大きな御利益だと感じております。 

よく、どうすればお教化が出来るかと聞かれることが多いのですが、特別なことはありません。御題目口唱はもちろんのことですが、他の人達の心の声を聞いてあげることが大切だと思います。言葉に出来ない、人には云えない、辛いこと、悩み事等を持つ相手に、あえて悩み事等を聞かず、まずお寺やお講席にお誘いするようにしております。「お寺に行って、人には言えないこと、人に言っても解決できないことを、佛様にお話をすれば、どうすればよいかお答えをいただけるでしょう。」と伝え、自分が御題目をお唱えし答えを見つけていただくよう、お寺やお講席にお誘いをしているだけです。 

最近では、正法帰入の御祈願と教化子をはじめ、下種先の方々の先祖代々のご回向をさせていただいております。今思えば、こうして、私に次々と佛様へお縋りしたい人達があらわれるのも、私に信心を起こさせる為の御法様のお導きだと受け止めさせて頂いております。御法様に助けられ、御題目に巡り会えた幸せ者だと感じております。(K.T)

H24年 立教開宗記念口唱会おいて


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