フランスのバルビソン派の画家ミレーの代表作に『種蒔く人』がある。農民と起居をともにして、その生活環境をリアルに描いたものだ。大地にしっかり根をはやした力強い農民の姿が、印象に残る名画だ。
われわれが自ら妙法を唱え、畑ならぬ、衆生の心の田に、妙法の種を蒔くのが、日蓮が弟子旦那の使命であることを思うと、私の脳裏にフッと、ミレーの絵が浮かびあがってきた。農民の蒔く種には、種の種類や、まく時期など、いろいろな制約があるが、妙法の種は、無限に尽きることなく、しかも、どんな人の心の中にも、蒔くことができる。
農民の蒔いた種は、そのままに放置すれば、鳥に食べられてしまったり、腐って発芽しなかったり、出来がよくなかったりするが、妙法の種は、ひとたび心田に植えられると、永劫に不失で、必ず、成仏得度することができるのです。
これほどすばらしい、妙法の種も、蒔くことを忘れたり、怠ったりしては、『蒔かぬ種は生えぬ』道理で、いかに求めても果を得ることはできません。
教化運動のたびごとに、教化する種がありませんと愚痴をこぼす人があります。蒔かぬ種なら生える道理はないことを承知していて、実行しないのでは、致し方がないのです。いくら口唱にはげんでも、種蒔きを怠ったら、横着というものです。
『種を蒔くということは』、むかし不軽菩薩が、人ごとに合掌礼拝した如く、妙法の信心をすすめることです。なかなか言い出せないというのが、最近の世相ですが、そういう時代には、なにか工夫して、話すキッカケをつくることが大事なのです。こういう細かい努力が積もって種蒔きとなるのです。これが教化運動の基本原点と心得て下さい。
御教歌 よの中の むだなはなしを する時も それを教化の 手がかりとせよ
昭和47年5月 乗泉寺通信より