金言(きんげん)」

仏様の御口のことを金口(きんく)と申します。そのわけは、仏様は私ども衆生を救済するためにしかお使いになりません。無駄なことや、人を苦しめるような言葉はお使いにならない。 何時までも、人を勇気づけ、人を苦しみから解放する、価値ある言葉をお使いになる。

そこで、仏様の言葉=御指南を金言(きんげん)とか、又金口の誠言(じょうごん)と申します。御信心させて頂く以上、仏の金言に従って修業させて頂かないとだめです。人の手前勝手な意見や、昔からの時世にあわない教えをそのままうけついでも、なんにもなりません。却って仏の金言にそむく罪をつくることになります。

お祖師様は、仏の金言に、もっとも忠実な、実行者と申し上げてよいのですが、仏教の歴史上に沢山の宗教家がでましたが、仏の金言については、あまり問題にしないで勝手な解釈をしたり、又、仏の金言が、どういう点にあるのか、内心では承知していながら、王臣の帰依が失われることを恐れて、現実に妥協したり、不勉強のため、仏の金言を理解できなかったりという有様で、全く悲しむべき習い損じになってしまいました。

しかし私どもはお祖師様のおかげで、あやまりなく、仏の金言の通りの修業がさせて頂けるのは全く身にあまる果報と申さねばなりません。普通なら一切経を勉強して、仏の金言がどういうことなのか生涯かかっても発見できるかどうかもわかりませんのに、私どもは、お祖師様の弟子旦那とさせて頂いただけで、この果報を頂けたわけです。

つまり、如説修業させて頂くので、身は凡夫でも、仏の金言の如くに、発音させて頂くので、仏の金言と同じ功徳がつませて頂けるわけです。こんな有難いことはないと感得させて頂かなくては勿体ないと思います。 

昭和41年4月発行 乗泉寺通信より


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