心のゆとり

昨日、乗泉寺の高祖会も無事に奉修され、今年の主な寺内行事が終わって、とりあえずホッと一息ついています。とはいっても、教区の方では高祖大士ご尊像のお綿かけがあったり、寺内でも人事異動や役務交代といったことがあるので、来年にむかってまだまだ忙しい日が続きそうです。

ところで私達は日々の生活が忙しくなると心のゆとりがなくなるせいか、ついつい声を荒げてしまうようなことが多くなってしまうものではないでしょうか?仕事に忙殺されて職場の仲間にきついことをいってしまったり、家事や育児におわれて家族につらくあたってしまうなど、生活がドタバタしてくると、人間はどうも心が狭くなってしまうようです。

友社会の中で生きていく上には、家族とか友達とか同僚といった存在ほど有り難いものはなく、どこまでいっても人間は一人で生きていくことなどできません。

周囲の支えによって個人が生かされているわけで、そういうことを基本として考えれば、周囲に支えられている分だけ、自分も周囲を支えなければ、いつか誰からも相手にしてもらえないような状況になりかねません。

御経にはおおまか六通り「良い友」ということについて説かれてあるので、簡単にご紹介いたします。(パーリ増支部)

①人が困っている姿を見ては、親身になって助けてくれる人
②苦しい時も楽しい時も、いつも一緒に励まし合える人
③相手に良くなって欲しいという思いから、厳しいことでも惜しまずに忠言してくれる人
④人の感情を良く汲み取り、相手の立場になって同情してくれる人
⑤不真面目にならないよう注意を与え、常に正しい方へと導いてくれる人
⑥相手が秘密にしたいことを暴こうとせず、陰ながら心配してくれる人

私自身も反省しなければいけないことばかりで、自分のことのみを心配するあまり、周囲の状況が見えなくなってしまう、そんなことが多々あるように思えます。どんな理由があっても、いくら忙しくても、周囲への思いやりが失われてしまうようなら、それは単なる自分勝手ということなのかも知れません。

自己中心的な生き方をちょっとずつ改めていくところに、より大きな価値観が見いだされてくるというのが、仏道修行であるかと存じます。心のゆとりを失ってしまったばかりに、他の大事なものを見失うことがないよう、毎日の修行に いっそう励みたいと思います。

 

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