施し、仏教ではこのことを「布施」と言い、この布施の修行を大事にします。仏になる一歩手前(仏候補生)の位である菩薩の修行の一番目には、この布施の修行が挙げられています。
それ程大切な修行なのであり、たくさんの功徳、つまり幸せになる元が積めるからなのです。
さて、一口に「施す」と聞いて皆さんはどんなことを想像しますか?おそらく大方の人が貧しい人、困っている人に自分の金品や食事等を与えることを想像すると思います。確かにこれも立派な施しです。しかし本当に他の人に施す物が無い人はどうすればいいのでしょうか。こんな仏様のお話があります。
ある時、仏様が布施の修行の大事な事を説かれました。これを聴いていたある一人の貧しい人が仏様に「私は全くの貧乏で、財産も無ければ妻子もいない身の上です。それでも布施は出来ますか?」と質問しました。
それに対して仏様は「あなたは貧乏と言うけれど、日に三度の食事はちゃんとしている。その三度の内の一食でも施すことができるではないか。」すると別の貧しい人が「私は三度の食事も満足に食べることが出来ません。それでも布施はできますか?」と仏様に尋ねます。
仏様はこの問いに対して「食事は満足に食べる事は出来ないかもしれないが、あなたは裸ではない。その着ている服の中から一本の糸を引き抜いてそれを与えれば立派な施しとなる。」と答えました。
するとまた別の貧しいひとが「私は着る物も無くいつも裸です。それでも布施は出来ますか?」と尋ねます。仏様は「あなたは確かに裸だが、達者な身体を持っている。その身体で人の為に働いてあげられる。」
するとまた別の貧しい人が「私は達者な身体を持ってはいるが、朝から晩まで主人の為に働き、人に布施する時間が無いのです。」と言いましたので、仏様は「人に布施する時間が無ければ主人の仕事に尚一層励むべきである。」と答えました。
そして更に別の貧しい人が「私は極貧で身体も弱く、働こうにも働けません。それでも布施は出来ますか?」と質問しました。仏様は「あなたは施す物は何も無いと言うけれど、心があるではないか。その心で人の善い行いを見たり聞いたりしたら、それを喜んであげなさい。喜ぶだけでも立派な布施になり、たくさんの功徳を積むことが出来るのだ。」とお答えになられたのでした。
つまり施しとはどんな立場の人にも出来るということなのです。世知辛い世の中ですから、自分の事で精一杯で他の人のことなんかかまってられないと思うかもしれません。しかしこういう時代、世の中だからこそ「施し」つまり他の人の為にという心が大事なのではないのでしょうか。自分に出来る「施し」探してみませんか。
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