文句を言うとき

人間誰しも文句を言う時は、自分の実態を冷静に見ることが出来ないものです。私も学生時代に成績が悪かったりしますと、自分の不勉強を棚に上げて「出題範囲に無い問題を出した」などと親や教師に文句や言い訳をしたものです。

かといって違う教科のテストの成績がよかったりしますと、その先生に感謝をしたり、どちらかというと自らの力を誇らしげに思ったりしたものです。

私たちは、都合がよければいまの環境を喜び、不都合なことが起きれば不満を募らせる所があるようです。

通勤や通学に便利な道を作ったとしても、スピードを出しすぎて事故でも起こしたら、こんな道、誰が作ったんだとの思いがよぎってしまう。とてもよい医者、薬に巡り会っても、その医師に従わず、それでいて病気が悪くなったら、医者や病院のせいにしてしまう。

教えにおいても、いくらよいものがあっても、その教え通りに進んでいないで、いいことがないというものです。

る程度の恩恵を受けているはずなのに、不都合なことが起きるとその恩恵を忘れて、他を責めてしまうのです。そういう心も正直な所ですが、不都合な時が起きたときに、すこし時間をおいて自らを省みることが大切ではないでしょうか。

私は文句を言いたい時、言ってしまった時、第一に御題目をお唱えする時間を作るようにと先輩から教わり、その通りにさせてもらうと

なんだか心がすっきりして、自らの行いを自然に顧みることが出来ると感じております。

高祖大士御妙判
人路をつくる、路に迷う者あり、作る者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう、病人嫌いて服せずして死せば良医の失となるか。

御教歌
信行を わがをこたりて 法花経に 妙はあらじと そしるなよ人


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