教えられないこと

どんなにすぐれた教えを頂いても、それを本気で受けとることができない人は、「犬に論語」、「猫に小判」と同然です。先生や親御さんがいくら一所懸命でも、生徒や子どもに教わる熱意がなければ、どうしようもない場合も多くあります。

だいたい先生や親御さんだって神様や仏様ではないのですから、一から十まで何でも指導してくれるはずもありませんし、どうしたって教えにくいことだってあるはずです。何とも言い表しようのない微妙なこと。言葉にすると誤解を与えかねないこと。立場上言いにくいことなど。相手の状況に照らし合わせて、時期尚早と判断されることもあります。

そもそも日本では昔から「教えない文化」というモノがありました。例えば職人の世界などでは、師匠の元に弟子入りしたら、最初は下働きの雑用しかさせてもらえません。そういう丁稚奉公を数年経て、言いつけを素直に守れるようになってから、ようやく責任のある仕事を任されてくる。

それでも技術的なことは簡単に教えてもらえず、何度も怒られながら身体で仕事を覚えさせられたわけです。そうやって、自分の至らないところをいつも突きつけられていたら、自ずと用心深く、ひかえめで、つつしみ敬う心が育まれてくるはずです。

ご信心でも同様に、言葉で教えられることと、教えにくいことがあります。御法様に対するお敬いの気持ちとか、ひかえめで謙虚な心とか、周囲に対する気配りなどは、ご信心ご奉公をさせて頂く中で、ちょっとずつ身につけていく素養です。これらのことは自分自身で感得して頂かないと、どんなに説明しても心から納得されるものではありません。

ですから、普段から一緒にご奉公させて頂く仲間の中でも、御宝前に対するお敬いにかけているとか、ちょっと横暴で出しゃばりが目立つとか、不注意な言動が余りにも多い人などには、キッチリそれはダメだとお折伏をさせて頂く。我々の言葉でお折伏ができなくても、ちょっと御看経が足りないんじゃないの、もっと御法様におすがりしてみればと、仏様のお力で相手をよくしていくのが、仏立の信心なのです。

そうやって、何度もお折伏を受けていくうちに、自分の身体で御宝前の大事さを覚えていくことで、私たちの心の中に謙虚、慎重、誠実、敬畏というすぐれた美徳が備わるものです。

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