御初穂を大切に

稲穂信心の中心は御宝前で、お祖師様に喜ばれる信心を目指して、信心修行御奉公に励ませて頂くことです。一番最初にお上げさせて頂くのが御初穂です。

時間・お金・水・身体などに分けられます。一日二十四時間、身体を動かすうち、その最も早い時に御宝前に御挨拶させて頂く、これが朝参詣です。 時間の使い方に工夫をこらすことです。

まず、信心の為の時間を最初にとる。時間は作り出すもので、暇でも出来たら参詣させて頂こうというのと、用事を後に回して参詣させて頂くというのとでは、かなりの相違があります。思いのこもった参詣が大事です。

最初にお上げさせて頂くのと、残った物をお上げさせて頂くのとでは、志の上で天地雲泥の違いがあります。

御教歌 御初穂は 第六天に奉り 仏に上げる 己が残物 

慈悲広大より


表と裏

どんなものにも表と裏があります。光があれば影、陰と陽です。建前と本音という面がつきそいます。人間にも生と死があり、人間は他の動物と違い、死を自覚し予想し得るのでして、いかに死ぬかはいかに生きるかの問題とも関連して考えねばなりません。この両面が調和されて、物事がまとまり、つき進んで行きます

ところが、私達は往々にして影におびえて物事を判断する場合がままあります。なまはんかに聞きかじって、誤った即断をすることがよくあります。他人の無責任な放言に左右されてはいけません。常に正しい判断のもと御奉公させて頂くべきです。我を通すのではなく、筋を通すのです。人の評判を気にしては、満足な御奉公は出来ません。

昔、ある一人の粉ひきの職人が息子と一緒にロバを引いて市場に売りに出掛けました。すると通りがかりの人に「ロバに乗らないなんてもったいない。」と言われ、そこで息子を乗せて歩きました。

今度は「親不孝な子だ。頭の白くなった親をお供にして歩かせるなんて全く心ない息子だ。」と言われたので、それもごもっともと思って、子どもを下ろして、自分がロバに乗り息子を歩かせました。

すると次に「可哀想に、子どもを歩かせ親が大名みたいに馬の背にそっくり返っている、よく恥ずかしくないものだ。」と言われ、親は閉口して息子を後ろに乗せて歩き出しますと、また人に「あの親子はどうかしている。二人もロバに乗るなんて、あれではロバがへたってしまう、可哀想に。」と言われました。

業を煮やした粉屋のおやじは、今度は二人とも降り、ロバを先に立たせて歩かせました。それを見ていた人々は、あざ笑いました。「世の中も変わったものだ。ロバ殿が悠々と先に立って歩き、人間どもがお供している。」

とうとう、粉屋のおやじさんは、「人の思惑を気にしていては何一つできない、自分は自分の道を歩かなくてはならない。」と覚るに至りました。(フォンテーヌの寓話)

長所は短所と言います。完璧というものはありません。まして人の言葉はいい加減ですから、それに気をとられていては何事も出来ません。人の噂も七十五日、根も葉もない、いい加減な言葉に振り回されないでください。

お祖師様に喜ばれる信心、これが大事です。いつでも御本意に叶った信心でなければなりません。陰の声におびえていては御奉公は成就できません。

所詮、陰の声・みんなの意見という言葉にひきずられがちです。信心はみんなの意見に従うのではなく、お祖師様の意見に従うこと。つまり、御指南や御妙判に従うことです。従うことの良さを学ぶのが信心です。 

些細なことに気を取られ、大事な問題をなおざりにしては駄目です。信心の大道をふみはずさないで、いつでも正しい大筋を歩み続けていくことです。自分勝手、我儘勝手の信心は邪道です。正しいみ教えを聞き、実行に踏み切って下さい。

信心が汚れてくると理屈が多くなり、身体が動かなくなりますから用心が肝心です。理屈とこう薬は何処にでも貼り付くのです。言い訳は弱いものです。 

御教歌
よの人のさがなしごとをまた人に つたへてわれに罪なつくりそ

慈悲広大より


因中に果あり

ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラードイツの詩人、シラーの詩に次のような一節があります。

時の重みは三重である。
未来はためらいながら近づき、
現在は矢のように早く飛び去り、
過去は永久に静かに立っている。

時は、過去から現在、現在から未来に、一瞬の休みもなく動き続けます。私達は時の流れのなかに翻弄されております。確実に、ためらいながら近づいてくるのが死をも包む時です。

一瞬一瞬、死に近づいております。それを自覚すればする程、生きることの尊さ、すばらしさをかみしめねばなりません。今日の一日は永遠に帰ってこない一日です。その意味で、永遠なる今日です。

この世のなかを見捨てず、長い目で人生を熱愛するその心持ちがこめられております。厭になった・嫌いになった・つまらなくなったと見限ってはいけません。

私達の人生を四つの段階に分けることが出来ます。
一、この世のなかへの誕生です。
二、自己を認める青春期です。
三、社会人としての役割を果たす時期。
四、人生の最終地に開放された自己の誕生。

この時期に老いと死とを経験します。この間に、人から受けた自己と人に与えた自己とがあります。特に人の為につくす自己でありたいです。利害を離れて、自分以外のものに自分を献げる、という習慣を持ちつづけていかねばなりません。

たとえ、小さなことであっても、周囲の人に役立つ仕事を持ち続けることが、その人にとって幸せです。私達の御奉公は菩薩行です。

「上求菩提、下化衆生」と申しまして、絶えずみ仏の教えを求める一方、それを周囲の人に説きすすめることです。すすめかたを上手にすることです。これが当宗の信心です。


言葉の重み

生まれてから死ぬまで一生の間、私達がお世話になるのに、言葉があります。言葉は生活上必要で、欠くことの出来ないもので、それだけに、言葉を磨くことが大切です。 

言葉は刃物のようなもので、人を生かしたり、殺したりします。昔から「丸い卵も切りようで四角、物もいいようで角が立つ」といわれております。ある地方の歌に「一つの言葉で喧嘩して、一つの言葉で仲直り、一つの言葉でお辞儀して、一つの言葉で泣かされて、一つの言葉は、それぞれに一つの意(こころ)を持っている。」というのがあります。 

一、感謝をする言い方をして下さい。たとえ些細なことでも御奉公させて頂いたら、お互いに認めあって、「ありがとう」という言葉を使ってください。御奉公するのが当たり前だ、という言い方は止めることで、特に入信間もなく、まだ信心の分からない人に対しては、お互いに信心の先輩者として、思いやりのある言葉を使うように工夫しましょう。 

二、折伏は、折り伏せるという面ばかりでなく、相手の良さを認めて、それを引き出すこと。つまり、長所をのばすことです。信心はさせて頂こうと思ったら、誰でもできるものです。朝参詣・御宝前の御給仕・お教化については、お互いに勧め励まし合うことが本当の慈悲であり、思いやりであります。 

御教歌 義は強く ことやはらかに 身を下る これぞ不軽の 折伏としれ 

「義は強く」-本筋を曲げないで押し通す。「ことやはらかに」-言葉は丁寧に心を込めて。「身を下る」-いつでも謙虚な態度。ということで、これが佛立信者の態度でなくてはなりません。「法は人によって弘まる」 御法は人を通じて他に伝わっていきます。言葉の重要性を痛感する次第です。 

平成14年3月発行 慈悲廣大より


距離をとれ

題・信者のまじはり新古をいはず

御教歌 信心の 奥ある人は 何となく 浅きなじみも むつまじき哉 

信心をしっかりと掴んでいる人は、浅いつきあいでも、他人とは思えないほど親しみ深く、そこには何ともいい知れない奥床しさが漂います。思いやり、慈しみ、情け深さ、しかも、謙虚な態度、上品それでいて筋金入りの信の強さなどがあります。人を引きつけずにはおかない人間的魅力の持ち主です。凡夫が菩薩になる。これが佛立信者のあり方です。 

人間とは人の間と書きます。人と人との間で生きておりますので、肩が触れ、足を踏まれ、時には騒々しいと思い疲れることもあります。ある程度の間隔を置く、人間として距離を設けることが大事です。余り短すぎるとついぶつかり合います。 

○「夜目、遠目、傘の内」夜、薄暗い雨の中を、女の人が傘をさして歩いております。その後ろ姿はいかにも美しく見えます。物事は遠くから眺めると、綺麗に見えるものです。 

○「従僕に英雄なし」世間から英雄と讃えられている人も、日々身の回りを世話している人からみれば、ただの人にすぎません。毎日、鼻と鼻を突き合わせていれば、何の変哲もありません。側にいれば案外人間的な泥臭さが漂い、わがままで個性が強く、協調性のない話の分からない面もあって、気難しい短気な性格の持ち主であったりします。それを遠くからみていると、偉人であり、超人のように見えるときもあります。これを距離の美学と申します。 

お互いに余りにも側に居て、肩をすり合わせておりますと、つい、その人の良さが分からなくなります。良い点を認め会いましょう。身も心も完全無欠な人はおりません。欠点が衣を着ております。余り期待し過ぎますと落胆も大きいです。 

性格上の欠点を攻撃し合うより、長所を生かし合うことです。持って生まれた性格は、直し難いものがあります。相手を攻めるより、自分を改良するように努めることです。世間でも、結婚前は両目でよく見て、結婚後は片目で見ろと申します。 

信者同士は、信心という土俵の上で付き合って下さい。つい長い付き合いだと、礼儀を忘れて言葉使いもぞんざいになりがちです。一回一回丁寧な態度をとり、馴れ馴れしい言い方は避けることです。 

御指南「信者ハ信心の事ばかりをいひもし。おもひもし。今日世上の迷のことを人がいふとも。随分相手二ならぬ様二。するこそ用心なれ。」 (扇全13ー210頁) 

お互いに、信心上の功徳になることのみ話題にしましょう。世間の景気不景気や雑談にのみ興じていたのでは、時間が勿体無いです。罪障を造らず、功徳を積まさせて頂く時間を持つことです。 

そこで、お互いに罪障の深い身の上だという自覚を持つことです。苦果の依身、地獄這い上がりの凡夫、三毒強盛の悪凡夫とも言われ「無始已来謗法罪障消滅」と日夜に御祈願させて頂いております。 

知らず知らずのうちに、過去から作って来た罪障を、先ず消滅させて下さいとお願いすることです。これが出発点です。自分の至らなさを懺悔することです。罪根深重の身の上です。良いことが生じた時、御利益を頂いた時には、御法の恵みと感謝するのです。 

悪いことが起こった場合には、自分の罪障だと信じて信心の改良に努め、御祈願に専念することです。これが信者の考え方です。自業自得が信心の鉄則です。何事も自分の蒔いた種の結果です。反省改良に努め、弘通に専念させて頂きましょう。

慈悲廣大より


問題意識を楽しむ

人は努力する限り迷うものである、という言葉があります。完全とか完璧とかいうことはないので、目標に向かって努力し、問題解決につとめぬく、そこに喜びと楽しみが湧いて来ます。たえず、信心の見直し、洗い直しにつとめてください。 

当宗は弘通の集団です。弘通意欲を燃やして、足をはこんで一回一回丁寧に信心の喜びを語りかける。これの繰り返しが下種折伏の修行です。全信者、全弘通者がそろって弘通誓願を御宝前にご祈願させていただくこと。 

寒参詣が一年の出発点です。皆参を目指すと同時に健康でしかも前向きに、明るく日々がおくれますようにおすがりする。身心一如で、身体と心の健康が第一。班、部、教区の充実強化が大事。これらの組織がお寺を根底からしっかりと支えておるので、土台になります。そして、役中が多くなれば分部するというのが、弘通の基本です。 

◎御弘通の 御奉公とて 外になし  御講まゐりや 又つとめたり  (扇仝14巻192頁) 

御講の充実が弘通の原点です。御講席の増加とお参詣者をふやすこと、この二つの御奉公に重点をおくこと。弘通意欲を燃やす為には御利益談の発表は必須条件。 

特に賞罰現証の体験談が参詣者に大きな感銘を与えます。ちょっといい話、信心の喜び、部や教区の生い立ち、苦労話や自慢話、苦しかったこと、楽しかったこと、悲喜こもごもの思い出、喜びと哀しみ、感謝と愚痴、それらが入りみだれて毎日が足早に過ぎ去ります。 

特に馬齢を重ねると時は早く感じられます。一日二十四時間、誰人にも平等ですが、子供の時は一日が長く、青年、壮年、老年となるに伴い、段々早く過ぎ去るように感じられます。 

特に御奉公にはげんでおりますと、一日の早さは驚く程です。夢中になっている場合には時が停止しているように感じられ、ほんのちょっとと思っても時の経つのが早いです。物理的時間と心理的時間とは異なります。待つ人の時間は長く、待たせる人の時間は短いです。 

たとえ五分でも、待つ人は「まだ来ない。まだ来ない」とやきもきし、時計を気にしながらいらいらします。待たせる人は、時間におくれて申し訳ないと、気ぜわしく急ぎます。待つ時間と待たせる時間も、時の感じかたが異なります。 

御奉公は毎日が真剣勝負の連続です。役職が多いと次から次へと待ったなしの用事が山積。朝詣り、引き続き寺内の御奉公、これで午前中は終わり。午後は教区や部内の御奉公、あっという間の一日です。どこの教区や部でも問題が山積。それを一つ一つ根気強く解きほぐしていく。終わりはありません。「忍」 の一字に住して粘り強く、根気よく、おしすすめていく。途中で投げ出さない。あきらめないこと。 

よく組織疲労ということを申します。どんな組織でも三年いや五年、長い間には欠点が生じますので、改良していかねばなりません。良い方向に方法論を変えていくことが必要です。組織を動かすのは人です。人が変われば従来の組織を変えていかねばなりません。柔軟性を持たせることも大事です。 

私たちの御奉公はまさに終わりのない旅。終着点はありません。お互いに大悲闡提の菩薩 (あらゆる衆生が成仏する迄自分は成仏しない)に徹して、教化折伏の日々を送りましょう。 

平成25年1月発行 乗泉寺通信より


福徳円満

御教歌 仏前の香花燈明ふき掃除 すればわが身の福徳と成 

お互い御同前の生活の中心は御宝前です。御宝前は、家の柱、身の柱、御宝前にお仕えさせていただくことにより、くずれない幸せを自分の身に感得できます。法華経の法師品には、花、香、瓔珞、抹香、塗香など十種供養が説かれております。信心の基本は身口意の三業にわたり御宝前にお給仕させていただくことにあります。 

身の供養=御宝前のお給仕、お清めの御奉公、お祖師さまのお住まいをつねにきれいにする。お初水をとり、お花をあげ、新鮮な食物をお供えしましょう。

口の供養=御題目口唱、ご法味をおあげする。朝夕勤行怠らず、口唱の音声を絶やさない。御供水をいただきつつ口唱行にはげみ、口唱の味を体で憶えてください。

意の供養=御法を敬う。供養、恭敬、尊重、讃歎して、尊敬と感謝の意をもっておつかえすること。 

また、亡くなった人の冥福を祈る時には追善供養が大事です。ご冥福とはあの世に行っても幸せになることを祈るという意味です。御宝前を中心としてお祖師さまに喜んでいただこうと信心修行にはげみますと、福徳という果報を得ることができます。福徳には二つの意味がこめられております。 

①体の御計らいをいただく。たとえ体が弱いなら弱いなりに長く命を全うすることができます。御題目を全身で唱える。お寺参詣、お講参詣にはげみますと、経力で知らず量らずのうちに体が丈夫になつてきます。妙の力によって駄目が駄目でなくなります。 

②御奉公が楽しく喜んでさせていただけ、億劫がらずに積極的に前向きに明るくなります。陽気に生きがいをもって毎日を暮らすことができます。御奉公という動きのなかに喜びが涌いてきます。一日に一回は親からいただいた二本の足を使ってお寺参詣にはげんでください。 

信心が研ぎ澄まされますと、目には見えないものが見えてき、今まで分からなかったことが分かってきます。信心の眼で見ますと、功徳を積むことの大切さ、と同時に罪障の恐ろしさを感得できるようになります。信者成仏、謗者堕獄という言葉の重みを実感できます。 

信心は机の上、書物の中にはなく、一人一人の心の中に涌いてくるものです。書物もそれなりに信心増進には必要ですが、上手に活用をしてください。今は紙の洪水でして印刷物が多いですが、願わくば書物は紙の起爆剤となって、信智増進に役立てば結構です。なかでも御利益談を読み聞かせてください。 

信心教育は一対一が原則です。一人一人に丁寧に、きめこまかく、親切心と思いやりといたわりの心をもって、時にはきびしく、育成にはげみましょう。時間がかかります。あわてず、あせらず、あてにせず、ということを心がけてください。 

「故に信心は、机の上、書籍の中になし。唯、人の心の中に起る信なれば、信の一字詮也と。」 

ところで、気象用語でいう「三寒四温」をもじって、「三感四恩」という言葉もあります。「三感」とは感謝、感激、寛容。特に近頃は、ありがとうという感謝の心が薄らいできました。「四恩」とは親の恩、師の恩、友人の恩、社会の恩。恩というのは囚の心と書き、人間として基本的に守らねばならない大切な心です。恩とはめぐみということ。

今日生きているのも、多数の人々によって生かされて生きているという自覚を持つことが大切です。


罪障の重み

御教歌 罪障を消滅すれば難はこず 難のこぬをば御利益といふ 

御利益が頂けないのは、罪障が重くのしかかっているからです。罪障は信心に背く罪の障りで、み仏の道からはずれ自分の好き勝手な行動をします。それが私達の持って生まれた罪障です。罪障との闘いが一生の問題で、払っても払っても、なお湧いてくるのが私達を悩まし続けて行く罪障です。 

常々御宝前に向かって朝夕御看経を頂く時には、「無始己来謗法罪障消滅」と御祈願しながら、謗法をおかし罪障を積み重ねて、それに振り回され続けています。そこで、罪障を身・口・意の三業に分けて説いてみます。 

まず、身体です。良い行いはせず悪いことにはすぐ飛びつきます。より良く生きるための行いはなかなかできません。

○殺生-生き物をむやみやたらに殺す。

○偸盗-人のものを盗む。

○邪淫-よこしまな、淫らな行いをする。 

暇になるとろくな行いしかしません。また、見方を変えると、人間の身体は四百四病といわれる程の器です。無病息災というのは言葉の上だけで、生まれながらにして様々な病気を持っております。健康そのもので身体に欠陥のない人はありません。 

しかも、年をとるに伴いどの機能も衰えてくるもので、取替えのきかないものばかりです。人間の臓器は交換のできないもので、脳を始めとして目でも耳でも歯でも一度失ったら代わりはありません。両親から頂いた身体を大切にして行かねばなりません。かけがえのきかないたった一つの命です。生来弱ければ弱いなりに長持ちさせることです。弱い身体を持って生まれてきたというのも身体についた罪障です。 

「病によりて道心(信心)起こり候か」でして、病が緑で信心を掴むことができます。 

第二は「口業」。口の上の罪障です。

○妄語-嘘や偽り。

○綺語-意味のない無益なおしゃべり。上辺だけの誠意のない巧みに飾った言葉。

○悪口-人の欠点。

○両舌-他人の仲を裂く言葉。一方で聞いたことを他方に告げ口し、双方の間に不和を生ぜしめること。一つのことを二様にいう二枚舌。 

御教歌 よの人のさがなしごとをまた人に つたへてわれに罪なつくりそ 

第三は 「意業」 です。

○食欲(とんよく)-むさぼり。これでよいという満足感はない。

○瞋意(しんに)-いかり狂う。怒ると自分で自分が分からなくなる。

○愚痴-因果の道理が分からなくなる。善因善果・悪因悪果。これが鉄則。 

御教歌 世の中をうらむはおろかかひもなし 苦楽はおのが報ひ也けり 

自分の業は自分自身のもので、決して世の中や他人に責任を転嫁しないことです。因果の道理からすれば、私達の現在の境遇(おかれている状態)は、全て自分の蒔いた種の結果ですから、世の中を怨んだり妬んだりしてはいけません。まして根も葉もない流言飛語に惑わされ、他人の短所をあげつらうのは止めましょう。 

信心はいつでもこれからどう功徳を積み重ねさせて頂くか。他人より自分はどうするか。悪い因縁を良い因縁に変えて行くのは妙法の不可思議な働きによる以外にありません。 

御教歌 罪障の有無は心にかけずして 経力たのめ南無妙法蓮華経                   

平成14年3月発行 慈悲廣大より


無事ということ

御教歌 今日を 無事にくらせる御利益を わするゝ間なく 信行をせよ

 

一日一日を大事に暮らすことです。今日一日二十四時間無事に過ごせるということは、仏様の大きな慈悲の恵みによるものと感謝し、尚一層御看経を頂いて、信心増進に勤めなければなりません。

 

無事ということには、悪い意味と良い意味とがあります。まず、悪い意味から申しますと、悪事をして人に見つからずにすんで良かった。極端ですが、人に危害を与えて発覚しなかった。人のものを盗んで露顕せずに済んだ。口車にのせて人を欺きうまくいった。信心の上では、罪障をふりまき人の功徳を止め歩いてホツとした。御有志をけちって上手く成功した。悪口や陰口を言い合い同調する人が多くなった。お寺のものを掠め取って上手く成功した。

 

これらは、罪障に負けた信者の言うことです。これでいい気になって御法のお蔭だと喜んでいたのでは勘違いも甚だしいと申さねばなりません。御利益は止まり、お叱りを蒙ります。

 

良い意味の無事とは、御法の為に功徳を積まさせて頂いた一日です。まず、念願の教化が一人成就させて頂いた素晴らしい一日です。

 

私のような拙い者の折伏が、相手の心の中に入り、信心を改良して重口んでくれた。奨引の話が出来るようになった。今まではなかなか言いだせなかったが、財の功徳について人に話せるようになった。人に信心の喜びを説くことができた。信心の喜びや御利益談を人に胸張って主張できるようになった。御看経を頂いても、思いのこもった口唱とおざなりの口唱とでは大きな相違があります。今日は真剣な口唱が上げられて良かった。これでなくてはなりません。 

「無事にくらせる御利益」というのは大きな御法のお守りを頂いた一日です。人間とは人と人との間と書き、人が生きるということは、蔭で目に見えない多くの人や物に支えられて生かされて生きている存在です。

お互いは御法の大きな慈悲に包まれて生かされているという自覚を持たねばなりません。自覚が深まると御法を勧め励ますという折伏の心が湧いてきます。 

御指南  「折伏ハ大慈悲也 共時ハはらたちおこるといへとも 終二ハ其真実を知るもの也 故二にくまれにくまれして繁昌する大法也」 

折伏には、怨嫉がつきものです。うらみとねたみです。こちらの言うことをすぐに受け入れ改良してくれれば、こんなに有難いことはありませんが、なかなかスンナリと物事は運びません。「逆縁正意」ですから、逆らいながらついてくるものです。 

騒ぎを起こしても、信心の灯火が消えなければついてきます。信心は生きものとくに腐りやすいです。油断できずいつどうなるか分かりません。今日の同志は明日は敵・今日の敵は明日は友と言う場合がいつでもおこります。御利益を頂いて、喜びに満ち溢れていても、いつの間にか感激がうすれて色槌せてしまいます。 

一、誰が誰に・いつ・どのような話をしたか。

二、それに対して、どの様な反応があったか。

三、どのように説き勧めたか。

四、その結果はどうか。 

この四つの問答の繰り返しが折伏行です。我が強く倣慢で、自信過剰の人に限って、折伏を頂くと腹を立てて怒り狂います。悪口を言われ怨嫉にあったら、罪障消滅だと喜び、褒められたら果報が減ったと思って懺悔の御看経を頂くような信心前を掴むように努めて下さい。


弘通意欲の昂揚

御教歌    御利益を うらやまんより かうふりし 人のこころに ならへ人みな 

御利益をいただいた人をうらやんだり、ねたんだりするより、むしろその人の信心前を学ぶことが大切とお示し下された御教歌です。             

うらやむとは、うらは表に対する裏、やむとは病と解しますと、心の病の一つで、みにくい、なさけない心のありかたです。「隣の家で倉がたてば、こちらでは腹がたつ」といって、人が良くなってゆくのを喜べないと同時に、「他人の不幸は鴨の味」といって人の不幸を蔭でほくそえんだりします。「隣の花は赤い」といって、隣の家に咲いている花は、自分の家の花より美しいと思いこみます。

イソップの寓話集に次のような話があります。ある時、肉屋さんがうっかり一切れの肉をおとしました。それを見ていた犬がすかさず肉をひろって口にくわえ、喜び勇んで歩き出しました。犬は橋を渡っておりますと、橋の下の川のなかに何かいるので覗きこみますと、何と水の中に犬が歩いており、しかも大きな肉をくわえているではありませんか。おれの肉より大きく、また美味そうな肉をくわえている。よしあの肉を食べようと思い、犬は川の中の肉をくわえている犬に向かって、「ワン」と吠えました。すると、その途端、肉は川の中に落ち、川の中の大の肉も無くなってしまいました。川の中の犬は水に映った自分の姿だったのです。 

他は案外よく見えるものです。うらみ、ねたみをおこすより、御利益をいただいた人の信心前を学ぶことが肝心です。当宗の御利益は教化にあります。病気全快、健康増進、心願成就、商売繁昌などの御利益も大事ですが、それより一歩すすんで、教化成就がまことの御利益です。 

御利益はお寺の御宝前から信心の手を出していただくものです。口唱と参詣が基本でして、一日に一回はお寺参詣をさせていただき、その上更に命の続く限りつとめぬき、生涯参詣を目指して下さい。決して途中で止めてはなりません。 

本堂での御看経は弘通が中心です。お寺は弘通の道場でして、道場である以上、信心を磨き信心を鍛える場所です。生きる勇気なり希望なりが湧いてこなくてはなりません。朝参詣にはげんで日々を明るく前向きに輝いて生きる。これが信者の生き方です。 

弘通が至上命令です。教化が一年に二戸授かりますように、信心の喜びや尊さを人々に説き聞かせることができますように、部内の信者の一人一人がお計らいをいただいて信心が増進できますように、などと弘通の願いのこもった御看経をいただくことです。全信者が全弘通者となること、これが建前でなく本音でなくてはなりません。 

この御題目は弘める為の題目であると同時に、御本意に叶った御奉公にはげみますと、必ず弘まる題目です。下種の大法を人々の心の田に植えつけねばなりません。それにより、お互いに崩れない幸せをいただくことができます。 

正しい信心前に徹しますと、必ず教化というすばらしい御利益がいただけるのです。信心は生きものです。一寸の油断も許されません。ゆめゆめ、気をゆるめないで下さい。随喜心をおこし、弘通意欲を燃やし続けましょう。教化成就した人の良い所をみつめて見習うこと。そこに運命を開拓する、いわば、定業能転のお計らいがいただける鍵(かぎ)があります。まずはお寺参詣にはげみましょう。 

御指南  「誓へば寺あり、何の為に建たるや、弘通所也。其所弘の法は題目也。乃至、佛立講何の為に立たるぞや。要法弘通の為也。宗内折伏の為也。」 

平成17年4月より