心の琴線にふれる―お折伏の心得―

お互いに見栄や、意地がありますから、表面では、とり澄ました顔をしていますが、心の奥底では人知れず苦しんでいます。そういう問題に、第三者から触れられると、ハッとするほど心が緊張いたします。と同時に、その人の云うことに、息苦しくなるほどの興味と関心をおぼえるのです。

それが、どういう問題なのか、人それぞれに違いがあるでしょうが、また、共通問題もある筈です。近頃の親と子の問題などは、共通問題の一つでしょう。せっかくお話しをして、信心をおすすめして、仏様の御手伝いとなる菩薩行をしても、ネライの外れたお話を百万遍しても効果があがりません。空家の棒ふりと大してかわりません。的を射たお話だと一つで命中です。

命中したお話ですと、必ず相手に反応があらわれます。眼がキラキラと輝き関心を表面にあらわしてくるのです。心の動きは、体のどこかにあらわれてきます。ことさらに、其の場で平静をよそおっても心の仏性がたまっていません。順逆ともに現証があります。

また、そういうような、相手の心を動かすお話の中には、必ず、それだけのネウチが含まれているのです。人を動かさずにはおかぬ力がこもっているのです。具体的にこうすると、こうなるという建設的な指示もふくまれているのです。それではだめ、あれではだめだというような抽象的な言葉では、人を行動させることは出来ないのです。

信心のある人というのは、心の琴線にふれることのできる人をいうのです。始めはなかなかうまく命中した話はできなくても、心がけしだいで心の琴線にふれた折伏ができるようになるのです。一生の勉強と心得て努力しましょう。 

昭和44年5月発行 乗泉寺通信より


金言(きんげん)」

仏様の御口のことを金口(きんく)と申します。そのわけは、仏様は私ども衆生を救済するためにしかお使いになりません。無駄なことや、人を苦しめるような言葉はお使いにならない。 何時までも、人を勇気づけ、人を苦しみから解放する、価値ある言葉をお使いになる。

そこで、仏様の言葉=御指南を金言(きんげん)とか、又金口の誠言(じょうごん)と申します。御信心させて頂く以上、仏の金言に従って修業させて頂かないとだめです。人の手前勝手な意見や、昔からの時世にあわない教えをそのままうけついでも、なんにもなりません。却って仏の金言にそむく罪をつくることになります。

お祖師様は、仏の金言に、もっとも忠実な、実行者と申し上げてよいのですが、仏教の歴史上に沢山の宗教家がでましたが、仏の金言については、あまり問題にしないで勝手な解釈をしたり、又、仏の金言が、どういう点にあるのか、内心では承知していながら、王臣の帰依が失われることを恐れて、現実に妥協したり、不勉強のため、仏の金言を理解できなかったりという有様で、全く悲しむべき習い損じになってしまいました。

しかし私どもはお祖師様のおかげで、あやまりなく、仏の金言の通りの修業がさせて頂けるのは全く身にあまる果報と申さねばなりません。普通なら一切経を勉強して、仏の金言がどういうことなのか生涯かかっても発見できるかどうかもわかりませんのに、私どもは、お祖師様の弟子旦那とさせて頂いただけで、この果報を頂けたわけです。

つまり、如説修業させて頂くので、身は凡夫でも、仏の金言の如くに、発音させて頂くので、仏の金言と同じ功徳がつませて頂けるわけです。こんな有難いことはないと感得させて頂かなくては勿体ないと思います。 

昭和41年4月発行 乗泉寺通信より


子をもつことはいと易けれどー子供の日に思うー

どの家庭でも、会社でも、後継者を、いかにして育てあげるかということが重大な問題となっています。信心でいえば、法灯相続ということです。誰でも、このことの難しさには頭をかかえてしまいます。ことの重大さ、難しさに頭を痛めるより、もう一歩下がって、子に対して、親として恥ずかしくない親となっているかどうか考えてみるのが先決だといえます。

仏様は、一切衆生を、悉く吾が子だと、さとられて、親としての大きな慈愛をもって、われわれのために、命をけずって苦労されました。久遠という大古から今日まで、どれだけの心痛か量りしれない。ところが、私ども凡夫は自分の子をもつことは、いとも簡単に、子を設けているのですが、はたして、親らしい親であるか、極めてたよりない、無責任な親である場合が多いのです。たった一人か二人の子に対してさえ満足な育て方をしていません。

今生で親子となるのには、過去からのご因縁があって親子となるのですから、その因縁が、良い縁で結ばれていれば、問題はないのですが、もし、先の世で仇同志のものが、今生で親子となっているのなら、これは、今更とりかえしのつかない悲劇といわねばなりません。大体、われわれの場合は、そのいずれかであるか?……過去の因を知らんと欲せば、現世の果をみよ……との御指南から、およその見当がつくはずです。

そのいずれの場合でもひたすら、お題目の経力にすがって、法灯相続を御願いするとともに罪障消滅のつもりで、出来のわるい、ぐあいのわるい子を良くするのがご奉公と心得て努力する外はないでしょう。

ご教歌に
中々にあゆまれぬ子は背におい つれて行くこそ親心なれ 

昭和42年5月発行 乗泉寺通信より


仏教とは

仏教とは仏の教えなり。読んで字の通りである。然らば仏とは何ぞや、仏は(ホトケ)で一切を解脱した事である、即ち宇宙の真理を諦観しこれに契合し一如したるもの言葉を換えれば、宇宙大真理の大勢力を発現せんが為に、中心的霊の人格化したるものを云う、通俗的にいえば、仏とは宇宙万象の実相実体を窮盡(きゅうじん)し、三世因果の道理を朗然大悟し、主師親の三徳を具備されたるものをいうのである。

されば仏は慈悲の究竟なり、智慧の窮極なり故に円満なり、又大自在である、真である、善である、また美の光明である。此の如き仏に依って教えられたるものが即ち仏教で、文字として顕れたのが、八千余巻の経典である、修行方面から八宗九宗の宗門が出来、印度から支那、支那から日本へと伝来して、法燈ここに三千年。尊い哉。

仏陀五十年の説法、これを化導方面の上から区分して、権教実教となす、権教とは仮の教え即ち方便教で、相手方の思想程度、理智の如何を察し、これに順応して、教え来たりたるものを云うのである。故にこれを随他意教とも云う。此の説法四十二年間である。実教とは真実教で、即ち仏陀内證悟道の全体を有りのままに、他に構わず説き明かした教えを云うのである。そこでこれを随自意教とも云う、此の説法八年間である。かくて此の権の教え、実の教えに立脚して建てられたのが八宗九宗の多となり、各々妍を競い美を争い、ついに一大仏教を形造ったのである。

仏教と云えば仏の金言に絶対よらなければならない。万一これに違背するものが有りとすれば、それは邪教であり、また邪宗である。仏陀は四十二年の説法を終わり、いよいよそれが本覚の真諦たる妙法蓮華経を説かんとして先ず無量義教を以て、権と実との批判をつけられたのである。経文に以方便力四十余年未顕真実とあるのはこれである。今まで説いたのは仮の教えで、衆生の機根に応じた方便教で有って、究竟の理に達することは出来ず、無論無上菩提を成ずることはむずかしい、已今当三説超過の妙法蓮華経、これぞ即ち一切衆生成仏得脱の真実教であると厳訓されたのである。

大正15年発行 「二陣」より


人を助けることーそれが信心ー

Sさんはまだ新しいが、極めて熱心なご信者である。それは、昨年のことであった。Sさんの勤め先の番頭の子供が日本脳炎になった。連日のように犠牲者が出て、やがて、番頭の子も、その一人になるのではないかと危ぶまれた。他人の子でも、この有様をじっと見ているに忍びなくなったSさんは、お教化をするつもりで、先ず、一心にお寺で御祈願を始めた。勿論、当人も、その親も、そんなことは夢にも知らない。 

然しSさんとしては、バタバタ死んでいくのをみていると、ゆっくりお教化をしてから、御祈願をしようという猶予もないと見てとって、ともかく、真剣に、その子供を助けたい一心でお願いをしたのだ。今にも溺れようとしているものには、何よりも助けてやるという直接行動が第一であるように、教化してからなどというと間に合わないのである。 

この慈悲、この菩薩心が遂に、人の一命を救うことができたのは申すまでもありません。Sさんがお寺でお願いをした、その日の午後から不思議に当人は危機を脱して治癒したのです。 

これには、いろいろの後日談がありますが、誰よりも驚いたのはSさん自身でした。人を助けるためにお願いすることが、こんなにも、あらたかな現証があらわれるものとは、ついぞ考えてもみなかった。私は、これですっかり、自分の信心が増進し、お肚の底から、自信が涌いてくる感じで、うれしくてたまりませんでしたと述懐されていました。 

ここに信心の筋があるようです。信心とは、自分のことをお願いするのではなく、人を助けることの中に、自分のことがおのづからよくなってくる。そこを、信じることが信心ではあるまいか。いくらお金や、地位があっても、自分のことだけに汲々たる人は、所詮貧しいというより外はないのである。 

昭和34年2月発行 乗泉寺通信より


憂晴(うさばらし)ーあなたはどんな方法でー

一生のあいだには、いろいろなことに出会います。面白いことばかりでなく、心配事や、苦しい思いをすることが次々とやってきます、そういうとき、あなたは、どんな方法で、気をとり直していますか。気ばらしの方法を一、二心得ておくことが大事です。

御信心しない人ならその憂晴らしの方法が大体きまっています。たとえば、第一にある例では、お酒で、憂晴らしをしようとする場合です。民謡の一つに「酒は涙か溜息かこころのうさの捨てどころ」というような文句があります。然しお酒も、そのあとが一層淋しくせつなくなるもので、本当の解決方法ではないようです。

次に考えられるのは今は、法律で禁じられていますが昔は「公用のうさばらし、けいせい狂に来りしなど云々」と記録にあるように、公然とみとめられていたようです。これも、うさばらしどころか、下手すると、とんだ悲劇の種となり危険な方法です。

昨今では、旅に出る、これが相当、流行しているようです。然しこれも、経済的にめぐまれた人か或は限られた人々にしか許されない方法です。その外に、好きな音楽や、趣味に打込む。それも、一方法ですが、やっぱり、刹那的な忘却法ですから、根本的には、うさの解決方法にはなりません。

御信者として最上のうさを晴らす方法は、お看経が第一です。その時はつらいようでも、御看経の中に没入して、無味口唱するところに、自然と、心の眼が開けてきて、物事に対し冷静な判断が生れてきて、今迄、心配してきたことや、苦しんできたことが、実に幼稚なことに思われてきます。本当の解決は口唱の中から生まれてきます。憂きことと正々堂々と握手してごらんなさい。

昭和37年7月発行 乗泉寺通信より


ステーション

東京駅のプラットホームにたっていると、様々な場面が見出される。ハンカチを顔にあてて別離の悲しみに沈んでいる幾組かの人々…あるいは親と子、夫と妻、兄と弟。この様な悲劇が毎夜このプラットホームで繰返されているかと思うと、そぞろに人生の無常を感じさせらる。

しかし又その反面に、喜色満面にたたえ、威気揚々、万歳裡(ばんざいり)に送られて行く人々もある。…野球の選手か、栄転の社員か、中には静かにして光栄に満ちた新婚旅行のシーンもある。これ等の場面を見ていると関係のない自分までもが愉快になってくる。前者の場合には沈静や同情が、後者に於いては興奮や羨望が湧き出てくる。実にステーションは人生の縮図といってよかろう。

かくの如き悲劇喜劇は単にそれらの人々の上にのみ起ることであろうか、否そうではない。皆我々に対するよき教訓であり、且、深く反省すべきよき機会である。
我々の人生航路は何時も波静かな時ばかりでない。種々なる転変がある…即ち失敗、病気、災難等の悲境に遭遇する。

しかし人生はそんな悲痛なことばかりではない。宛も同一のステーションに於て同時に悲事喜事が現わされている如く、…健康・幸福・成功等の楽しみが織込まれるものである。以上の如き喜びと悲しみの交錯した人間生活に於て、一般の人はどうであろう。成功したと云っては無闇に調子にのり色や酒の方向に脱線する。あるいは又悲しい苦しいと云っては貴い命をムザムザ捨てる様な浅はかなことをする。よかれあしかれ何れにしても常軋を逸し易いのが人間である。これらは何に原因することであろうか。

それは世間の人々がその生活の中心土台となるべき信仰を握って居らないことによるものである、即ち中心がない故に苦楽共にその指針を失ってしまうのである。されば真の信仰が人間の心に植付けられた時、始めて完全な固定した生活が開けて行くのである。正しい教え、熱ある信仰、それは当宗以外には見出すことは出来ない。

当宗の信者達は、悲しい時には南無妙法蓮華経、嬉しいことにも南無妙法蓮華経、よきにつけあしきにつけお題目で一貫して行くそしてすべての解決を妙法経力にまかせ、その綱を離さずに進んで行く。アヽその姿や、実に歓喜そのもの、幸福そのものである。

世間の人々はあたかも杖のない目の不自由な人の如く苦楽の巷にさまよっている。当宗の信者はお題目の杖にすがり、心強く開仏知見の生活に入って行く。
我々は此の身上の幸いを喜ぶと共に、真の信仰を知らぬ気の毒な人をあまねくお救いすべく、教化折伏に精励しなければならない。

御妙判に「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽共に思い合せて、南無妙法蓮華経と唱へ給へ。是豈真(あにしん)の自受法楽に非ずや。」

昭和5年発行 「二陣」より


新宗教の台頭について

映画に出てくる牧師をみても、少しも変には思わないが、坊さんが現れると、きまって観衆は笑う。だいいち僧侶の服装がひどく道化た感じがするし、一般の生活と遊離した存在という感がふかい。 

家に不幸があったり墓参りのときしか交渉がないのだから無理もないが、そういう地位におし込めてしまったのは民衆ではなかったか?もとより僧侶の無気力がいちばんの原因には違いないが、だからといって仏教そのものを否定する事は見当外れである。 

仏教文化より流れ出た思想風俗等はいつか生活の中に溶け込んで、知らず識らずその恩恵に浴していることを思えば、仏教自体はたしかに末法万年の外未来までも流通するものでなくてはならぬ。 

ただ僧侶というアナクロニズムの存在はこの場合、十年一日の如くであるとすれば無用であるといえよう。こんにちより将来へかけて在家仏教という形で正しい宗教が立ち上がらねば、ふたたび置物の如く、凡そ生命力のないままその存在価値すら喪失してしまうに相違ない。 

しかしながら、もし在家仏教が直に実現すべき社会的基盤が脆弱であるというなら、僧侶は僧侶のままであってよろしい。しかしもっと積極的に近代の教養を身に付けて、精神生活指導者たる自覚と責任の下に、密接な日常生活面との接点を見きわめ、敢然民衆の中へ跳り込んでゆかねばならぬ。 

人界示同が菩薩の変用であるならば、民衆の生活に深く入って、人生行路の強力(ごうりき)的役割を果たす行動力がなければならぬ。かくしてその馬鹿げた遊離的生活を強い自覚を以て脱出し、民衆に示同し果敢な活動を展開せよ。 

民衆は又、寄生虫の如き道化師の如き僧侶を放逐せよ。いつもより伴侶たり、常によき師である指導者が現れる温床の用意こそ、新宗教台頭の前提でなくてはならぬ。 

昭和22年発行 「二陣」より