人に教えることは、教える人にとっても、半分、勉強になる。これに似た諺に「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」というのも同様な意味をもっている。老練家でもときには、未熟者に教えられることがある。
われわれは立場上、人に教えを伝えるということが多い。その度ごとに「教うるは学ぶの半」ということを感じている。さいきん、学生諸君が熱心に御法門の勉強をしている。その結果、わからぬことや、問題点をききにくる。私なりに努力して、できる限り相談相手になることにしている。いつも、そのときに、思いがけぬ、ヒントが発見されて、私自身、とてもよい勉強になるので、楽しい思いをさせてもらっている。
教務員諸師が、信者さんを教導しているが、その反面では、信者さんから、逆に教えられることもきっと多いのではあるまいかと思う。殊に、若い教務員には、とてもよい勉強になる筈である。このことは、信者間でもお互いに教えたり、教えられたりという関係があろうと想像される。孤立したのでは、成長しない。ささえあい、教えあうので、お互いに勉強になっていく。
消極的な人は「人に教えるほどわかってはいないから、とても教えられません」という。これではいつまでたっても、実践的な「ぼさつ行」は出来ない。どんなささやかなことでも、人に教え、伝え合うという姿勢になる人は、教えながら、自分がおぼえていく。進歩する人は、決して孤立しない。
教化隊、助行隊に入って、教える側の人について、勉強していくと、必ず身についた勉強ができる筈、この好機をはずしてはならない。「化の功、己れに帰す」ということを、今年は全信者が体験して、みんな教化親になってほしいものである。
昭和54年3月 乗泉寺通信より