人間と他の生き物とのちがいは、生き甲斐をもとめるか、もとめないかという一点にあると思う。人間も、その他の生き物とは本質的にちがいはないが、生き甲斐という点になると、他の生き物には一寸手におえぬ次元にぞくする。
さいきん新聞や雑誌などで、この問題が採りあげられてきた。何を生き甲斐とするかは、人によって違うのは、顔の異なるごとく当然であるが、大体、共通点をあげることができる。
人間の求める最大公約数的な生き甲斐は、極端にいうならば、幸福の追及ということにつきる。子孫の繁栄も、個人の富も、家庭の平和も、所詮は個人主義という土台の上に築かれた幸福をもとめているにすぎない。
ところが、個人の仕合せが平等に得られないで、不幸な人が一方には存在している。ということを冷静に考えていくと、個人の仕合せをもとめることが、果して、人間の生き甲斐として、価値あることなのかどうか、一抹の空虚感を消し去ることができない。
ところが、自分中心の幸福追求主義を、他人中心の利他主義に切りかえてみると、どういう現象がおこるか、これは決して、不可能なことではないので、試してごらんなさい。
自分中心の幸福追求には味わえなかった生き甲斐が感じられるのです。元来人間は、利他本意に出来ていて仕合せを感得する動物であったのに、どういうわけか、自己中心主義に軌道が変わってしまったらしい。
さいわい、法華経の極意も、実は、人を助けんとする利他的行為の中に、自らも助かるという教えが説かれている。
われわれの一挙手一投足が、利他的行為に結びつくならば、そこにすばらしい生き甲斐を発見することはまちがいないと信ずる。