自他の喜び

菩薩行とは、彼も喜び、我も喜ぶ自他の恭悦を目標とする修行です。自己の立場や利益ばかりにとらわれて、他の喜びに心を配れぬ人は、信心上は未熟者です。

 「自分の顔はこれ以上朗らかにはできない、ほっておいてくれたまえ」と周囲の人を不愉快にして平気でいる損な性分の人があります。「感謝の心を表明する」ことが、他に喜びを与える一つの要素ですが、「ありがとう」と怒ったような顔でいったのでは、相手は喜ばないでしょう。

ですから、他に喜びを与える修行ともなれば、顔かたちにも配慮がいります。また、聞く方もよい聞き手になることが喜びを与える道です。話の腰を折ったり、冷笑したり、ムッツリして聞いていたのでは、話し手はくさってしまいます。

日蓮聖人は親に対する日常の心得として「せめて、することなくば、日に三たび笑へとなり」といわれて、笑顔でも孝行せよと教示くださいました。喜びを与える修行は、こういう配慮から始まります。

 そこで、折伏の場合はどうなるか、「諌言耳に逆う」道理だから、にくまるるほどに折伏するのがよいのだとの考え方でいいでしょうか。それは、確かに折伏の一つの心構えとしては大事なことですが、いつでも怨嫉を激発するようなのがいいとは限りません。やはり、喜んで信伏させる努力が大事です。

したがって恩にきせたり、権勢づくだったり、おどしをきかせたりして、嫌気を起こさせるようなのは下の下と申さねばなりません。礼儀を心得、やさしい顔つきで、いたずらに反感を起こさせない心遣いが必要です。そして一日も早く御利益を感得させて、信心のありがたさをわからせねばなりません。

 もし目的とする御利益がある程度の苦しみを経なければ到達できない時は、ただちに喜びを与える訳にはまいりませんが、明日の幸せを得るためには、今日の苦痛に堪えねばならぬと、ねんごろに説けば了解できるはずですから、そういうときは希望をもたせ、苦痛に対処するよう力づけることが大事です。

 だいたい、幸福を与えて喜んでもらうということは、実際的には、金銭的に例をとれば、金銭を直接与えることではなく、金儲けの方法を教える場合が多いのです。ですから、ご奉公の経験を持ち、世間の苦労をした人ならば、菩薩心がありさえすれば、貧乏でも喜びを与えるご奉公は可能なのです。信行実践や御利益談を聞いたとき、スグ、他に伝えても喜びを与えられます。

教化育成も、要はどうしたら喜びを与えられるかという点がポイントで、その点を、土台に置いて努めれば成功疑いなしです。自分の努力で喜びが与えられれば、だれだって自分も嬉しくなります。喜びを与える苦労をすれば、自分に喜びを得る道も考えつきます。ですから、私どもは常に喜びを与えることに気張るべきです。


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