協力ということ

協力から生ずる力は、相当の威力を発揮します。ですから信者は仏に協力を求め、実業家は協力体制を築く事に苦心と努力を払います。根の弱い木も、支柱が堅固なら、大風でも安心です。

自主独往とか、独立自尊とかいう言葉は、依頼心の強い弱虫を叱った言葉で、実際は、一人で仕事は出来ません。独り立ちに見えるのは、主役が目立ちすぎるからか、こちらの眼力が未熟で、脇役の働きを見出す力がないからです。

世の中は、万事が相より相助ける相関的関係で成立していますから、自力と他力の協力を考えないで暮らそうとするのは乱暴な話です。

異体同心という協力の方法は、各自がそれぞれの分野で働きながら、中心の大目標をめざして協力することで、同志的、信仰的協力とでも申せましょう。

三人寄れば文殊の知恵という協力方法は、相互に不足の箇所を補充し合ったり、考えを噛み合わせたりして、より以上に向上進歩しようという相互的、練磨的協力といったらよろしいでしょう。また、一本では弱いが、数本まとまれば強くなるという補強的協力の方法もあります。

要するに、いずれの方法による協力でも、独力より大きい力が出るのは事実です。ただそれを悪用すると大悪を犯し、善用すれば大善が積めるのだと心得て、かりそめにも悪事の協力は用心し、信心上も、生活建直しも、信心第一で、よき協力者を得ることに努めるべきです。

私どもはいわゆる凡夫ですから、ときどき、協力の功徳を忘れて、それを破壊する同破の罪をつくったり、ご弘通の邪魔になることに付和雷同したり、協力の煩わしさを嫌って独り信心に走ったりするときがあります。または他の協力を要求しながら、自分は非協力という、はなはだ手前勝手なときもあります。

当宗で異体同心という場合は、日蓮聖人に心を合わせることです。それが親しい教務員とか、役員を中心にした結合になると、党派争いが起こったり、分裂したりして、協力の弊害が多く出ます。

それで個人から家族、それから社会、個人から国家、それから世界で、信心では、家から寺、寺から本山、宗門というふうに、協力の範囲を、常に拡大しなければいけません。歴史家の指摘するところでは、文化の躍進は、異種の文化の接触するところに起こるといいますが、これも一種の協力の効果と申せましょう。

当宗で、生活建直し運動とか、社会福祉事業とかをご奉公の一部に併用するゆえんは、時代相応のご弘通の道を拡大強化したい念願にほかなりません。上述のごとく、「協力ということ」には、いろいろな問題が含まれています。

「気に入らぬ風もあろうに柳かな」ですから、お互いに忍辱の心で、積極的に協力の功徳を積みましょう。


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