信心は 「スナオな心」が基礎です。ですから、信心はいつでも「スナオな心」とは、どういう状態かを研究しつつ進めることが大事です。
御教歌に
「十五夜の 月は丸いと いふことを うたがはざれば 信者也けり」
とあるように、丸いものを丸いと見られれば、それが「スナオな心」です。それが白を黒と言ったり、三角を丸いと見る人は「スナオな心」の持ち主ではありません。
他人の善事を見たり聞いたりして、スナオに感心できる人と、できない人があります。なかには他人の善事に感心するのは、自分のこけんにかかわるような気でもするのか、一応けなしてみないと気のすまぬ人があります。妻の労苦に対して、素直に「ありがとう」と言えない夫のようなもので、これは狭量で、豊かさがなく、みっともない話です。
娘を嫁にやるとき、体を動かすより先に、まず呼ばれたら「ハイ」といえる嫁になれ、そうすれば必ず辛抱もできるし、夫からも周囲からも満足されるだろう、と教えた人があるそうですが、これは嫁さんにかぎらず、だれがいつ、どこで実行してもよい言葉です。我意がなく、平和な心のあらわれで、聞く人の心を自然とやわらげる不思議な力をそなえています。
人を見下したり、ネタミや、憎しみの心からは、この美しい「ハイ」という言葉はなかなか出にくいもので、相当の修養を必要とします。「ハイ」とか「ありがとう」という言葉が、何のわだかまりもなく、スラスラといえる境地に到達しようと努める人が増せば、世の中は明るくなるわけで、それこそ信心の要素である「質直心」「随喜心」「南無する心」などと、一連共通の心です。
失敗をごまかす人はたくさんいますが、それを失敗と認め、貴い経験として生かす人は、残念ながら少ないものです。ただ「スナオな心」の人だけが、その反省を見事にやってのけます。また、右に行けば良いにきまっている分かれ道を、良いと知りつつ良い方を選ばぬ人もずいぶんあります。骨が折れるとか、虫が好かぬとかいう理由なのでしょうが、要するに「スナオ」でないからです。そして、そういう人にかぎって、次の分かれ道でも、また、その次の分かれ道でも、不思議と悪い方へ行きます。
それから、小才のきく人で、初めから小さく固まって、より以上仕事を学びとろうとする「スナオ」さのないタイプもあります。与えられた仕事は一応まとめはするが、ただ、それだけで進歩がみられない型です。これは下手をすると、時勢に遅れて、晩年に運の悪くなる人です。妙法の信心は、即聞即行で、み教えをよく聞き、身につけて、時世とともに進みながら、生活の根もとを堅固にするものです。したがって教えをよく聞く「スナオな心」が欠けていると行きづまりを生じます。以上簡単に「スナオな心」 の反映する面をならべてみました。