自慢はほどほどに

人間はどうしてこうもことごとに自慢がしたいのでしょうか。くだらぬことを得々と吹聴して歩いている人は、実に多いものです。また、それに調子を合わせておだてたり、ベンチャラをいったりする物好きも相当あるので、自慢屋はますます調子に乗り、増加する一方です。実際は聞き手も馬鹿ばかりではありませんから、お腹の中ではあきれかえっているかもしれません。すると本人だけがいい気になっているわけで、それだと漫画の材料です。

ある御経には三つの驕逸(たかぶり)が説いてあります。壮年驕、無病驕、活命驕の三つです。
壮年驕とは青春に酔いしれて、刻々と老いつつあることを忘れているオッチョコチョイ。
無病驕とは現在健康なのを自慢の種にしている人で、いつ訪れてくるかわからぬ病苦のことを忘れているのんきな人。
活命驕とは、いかに養生してもしょせんは死なねばならない体であることを忘れているごとく、自分だけはなかなか死なぬといい気になっている人のことです。

んな心だと、必ず油断ができ、勉強を怠たったり、道草を食ったりして人間のみが持つ崇高な使命などのことは考えてもみないで、一生を終わるでしょう。自慢する価値のないものをいい気で自慢していると、もっと大事なものを失います。

「四ばこりは学文ぼこり古ぼこり役にほこると金にほこると」(御教歌)

学のあることを誇示したくてしかたのない人、年代の古いのを自慢する人、役柄をいばる人、財産を見せびらかしたくてうずうずしている人、こういうことを信者のくせに自慢したがるのは、信心上大切な宝は何かということを忘れていて、世間的な形骸的なことの方に心が傾いているからです。内容の吟味を忘れて外観だけをいばるなどは子どもじみた話で、もっと上手のいることがわかればみっともなくて自慢などしていられません。

だいたい、自分一人の力でえらくなったのならともかくも、世間のことは他の協力なくして上達するものは一つもないはずですから、すぐれた点があったらまず協力者に感謝するのが第一です。それを自慢のみが出てくるなどは、信心道の一階にも達していない証拠です。

「今日を無事にくらせる御利益を 忘るる間なく信行をせよ」との御教歌の心をよく味わってほしいものです。ある年寄が長寿をたたえられたとき、親が丈夫な体に生んでくれたのでと、まず親に感謝をしていました。

自慢家さんならまず私の長寿法はなどと一言自慢から始めるでしょう。自慢したい気持をおさえる自制心がないと心からありがとうございますという信心の境地には入れません。したがって社会福祉のため、ご弘通のためなどに寄付をしたり協力する心は、心底からわきません。だれでも自慢したい心のない人はありますまいが、それはあまり立派な精神ではないのだと自覚することが大事なことです。


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