私の信行体験談

ありがとうございます。現在、私は経堂教区2部の部長をさせて頂いております。私のご信心を中心とした生活は、2年前に世田谷別院のはげまし合のご奉公を仰せつかり、それより遡ること一年前、都合三年前より続けさせていただいている開門参詣から、元気で明るく楽しい一日が、始まります。 

本日は、入信して約八年になる私のお教化に対する気持ちを少し皆様に聞いていただければと、思っております。 

とても元気だった母親が、長い間の日課にしていた一日十時間のパチンコと夜中のカラオケを充分に楽しんで、突然八八歳で亡くなりましたのが、平成十六年の五月でした。亡くなる少し前に、世田谷別院に以前からあったお墓を、母親が突然綺麗に直して、一人娘の私に 「もし、私が死んだら乗泉寺にお墓があるので、そこに埋葬して、お墓参りに来て欲しい」と言われました。 

別に家族の誰もが佛立宗のご信者でもないし、お墓参りどころか、長いこと別院の側の経堂に住んでいても、乗泉寺がどこにあるのかもよく知らなかった私たち家族でしたが、長谷川乗道師をはじめご信者の皆様がとても親切に母のお葬式をして下さいました。

それがご縁で私も、毎朝お墓参りに出向くようになり、甘やかし放任しながらの、3人の子育てと、商売だけには真剣に取り組んで生きてきた今までの私の生活ではありましたが、別院で見るポスターや、朝のご法門は、(とても失礼で生意気な言い方ですが)理に叶っていて、次第に私もこのみ教えのように、生きてみたいと思うようになり始めました。

丁度その頃、経堂教区2部の部長さんが日教上人のご本を下さいました。その本の中に『信者なら年に一人のお教化もできないなんて…』というくだりがあり、何故かその言葉にとても惹かれました。 

それならまずは娘を、次の年に親から見れば危なっかしい生活をしている次男も入信させて頂きました。その後も知っている人を見れば、まずは、さりげなくお寺の話や、私が頂いた沢山のご利益の事を伝え、ちょっとした会話の中で有難いことが話題になった時には、「お寺ではこういう時に、お計らいと言うの!」と伝えて、それからは、皆がお計らいという言葉を使い始めたり、いつも連れていっていただく団参の楽しい事等を話して、私の周りの方々に、お寺の情報を発信し続け、日教上人のみ教えを何とか毎年守っておりました。 

でも今年は、いわゆる種切れの状態のまま、第一目標の五月三十日、日歓上人の祥月ご命日が近づいてまいりました。入信した当時より私を見ていた主人の姉二人は、長年正法帰入のご祈願は続けていたものの、今までいくらお寺に誘っても全く愛想なしの状態でした。 

丁度、5月に入ってすぐのことです。月に一度大阪から上京している姉二人は、その日の会話の中で、まだ私がお寺に行っていて、以前よりも明るさが増し、溌刺としていると言ってとても羨ましがりました。 

私が、「お寺に行っているとこうなるのよ」と冗談半分に言ったら、姉たちが『何をすればいいの?』と聞き返してきました。私は自分の耳を疑いながらも、興奮してお姉さんたちに「私の行っているお寺の信者になるの?本当?」と聞き返したら、二人の姉が、『難しい事がないならやらせて貰おうかしら?』と思いもしない返事が返って来ました。「ヤッタァ!ご法様ありがとうございます。」 と思わず自宅の御宝前に御礼申し上げました。 

でも、日歓上人のご命日まであとこ十日しかなくて、私の5月の予定もほとんど詰まっているし、お忙しい金澤歓一師と姉二人の予定を合わせ果たして調整出来るのだろうかと思っておりましたが、在ったんですその一日が。今まではお寺への誘いに対してあんなに反応が悪かったにも関わらず、御奉公の当日は、穏やかに且つ、厳粛な中、御本尊様のご奉安と持参したお数珠のお開眼もしていただくことが出来、二人の姉が本当に喜んでいるのを見て、はるばる甲子園まで御奉公させて頂いた甲斐があったと感激致しました。 

娘から始まって、主人の姉まで現在十四人の教化子がおりますが、その中にはもう自分で一人歩きしている者も何人かおります。しかしながら、まだまだ、手とり、足取り育成をさせて頂かなくてはならない者がほとんどです。落ち転びなく育てながら、このご信心をお持ち出来る喜びを少しでも早く感じて貰えるよう、共に歩んで行きたいと思っております。 

お導師さま、お教務さま、皆様、私をはじめ教化子のご指導を今後ともどうぞ宜しくお願い致します。(K.H) 

竜ノロご法難記念口唱会より


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