日晨上人御法門②

御教歌      偏屈に おこるとわけが わからぬぞ 同じのむならよい 薬のめ 

偏屈というのは、気持ちがネジ曲がっておりまして、中々人の言うことなど聞かないという性格を偏屈とこう申します。これがお互い同士いいつのるようなことがございますと、中々人の言うことなど聞かない。なるほどそうだと思っても聞かないというような、変なところが出てまいります。確かに感情というようなものはそういうようなところがございますんですが、それで、争っているような事柄があると、あるいは起こると、ここでおっしゃってございます。 

そうすると道理というものがわからなくなっちゃう。「同じのむならよい薬のめ」で、薬でもいい薬のんだほうが効くんですから、それを変に我をはっててですね「これがいい、これがいい」といって。薬ならまあだいたいお医者さんに判断してもらうのが一番いいわけですから、それを素人のわれわれがそのかたくなに一方を主張するてなことがあったら、それはおかしな話なんだと。そういうことが、お祖師さまが御法を弘めるときに起こってたわけでございます。 

鎌倉時代でございますから、その前には奈良とか京都とかいう所で、伝教大師とか弘法大師とか、またその他奈良へ仏教を伝えた偉い坊さんがおりますんですが、そういうのがずっとこう伝わっておりましたんですけれども、鎌倉という時になりますと、今度は又支那から禅宗などが入ってまいりまして。そうして一般では念仏がひろまってまいりまして、そういう時でお互いに自分のがいいということで、そして向こうの主張は主張だけれども俺のがいいというふうに、いわゆる偏屈に凝り固まりまして、いくつもの宗旨ができちゃったわけです。 

それに対して日蓮聖人は、おかしなことだと疑問をもったとおっしゃる。よくよく調べてみると、お互い同士がですね、まあいえば勝手なことを言っている。仏さまがどう言っているかということを一生懸命に求めようとはしない。 

仏教を信ずるからには仏の教えにつくのが一番いいんじゃないか。まあ病気になったらお医者さんにかかるのが一番いいんじゃないか。それを、いうなら弟子どもがですね、各々勝手なことを言ってるというような形になっちゃうわけでございます。それで責め合えば、偏屈に感情を高ぶらせて出会うということになりましたもんですから、で、お祖師さまがそういうやり方は日蓮はしないと、みんなそういうことを言い争ってるけれども、日蓮は仏の教えに従うといういきかたをすると。 

佛立宗なんていうのは、そういうことなんですね。仏のたてた教えに従うというので、佛立宗でこうやる。私たちが信心しておりましても、やはりそれぞれの方々がですね、やはりいろいろな体験を持ちますからついそれがこう主張したくなっちゃうわけです。それはいいことはいいんですけれども、場合によるとお祖師さまはそうは言ってないてなことを平気で言ってる、てなことが起こってくるわけです。 

ですから、信心というものはやはり佛立宗の信者というものは、仏さまやお祖師さまのおっしゃることを第一とするというこころがなかったら、まことの信心とはいえない。お祖師さま流のご信心とはいえない。 

まあそれが、どうしても言い張るというようなことになると、感情が交わって、まじってきて、そして、或はそんなふうに言っといたと思いながらも、なにくそってなところが出てまいりまして、曲がったいきかたをするようなことになるもんですが、信心をする途上におきまして、そういう私というものを出さないように、よく教えを頂いては、更に結構なご利益の道を進ませていただくように改良していかなくちゃいけないと、「同じのむならよい薬のめ」で、先師のいい教えを頂くように心掛けなくちゃいけない。自分の考えで押すというようなことになっちゃいけません、ということをいわれた御指南でございます。

思い出の妙証山録より


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