子をもつことはいと易けれどー子供の日に思うー

どの家庭でも、会社でも、後継者を、いかにして育てあげるかということが重大な問題となっています。信心でいえば、法灯相続ということです。誰でも、このことの難しさには頭をかかえてしまいます。ことの重大さ、難しさに頭を痛めるより、もう一歩下がって、子に対して、親として恥ずかしくない親となっているかどうか考えてみるのが先決だといえます。

仏様は、一切衆生を、悉く吾が子だと、さとられて、親としての大きな慈愛をもって、われわれのために、命をけずって苦労されました。久遠という大古から今日まで、どれだけの心痛か量りしれない。ところが、私ども凡夫は自分の子をもつことは、いとも簡単に、子を設けているのですが、はたして、親らしい親であるか、極めてたよりない、無責任な親である場合が多いのです。たった一人か二人の子に対してさえ満足な育て方をしていません。

今生で親子となるのには、過去からのご因縁があって親子となるのですから、その因縁が、良い縁で結ばれていれば、問題はないのですが、もし、先の世で仇同志のものが、今生で親子となっているのなら、これは、今更とりかえしのつかない悲劇といわねばなりません。大体、われわれの場合は、そのいずれかであるか?……過去の因を知らんと欲せば、現世の果をみよ……との御指南から、およその見当がつくはずです。

そのいずれの場合でもひたすら、お題目の経力にすがって、法灯相続を御願いするとともに罪障消滅のつもりで、出来のわるい、ぐあいのわるい子を良くするのがご奉公と心得て努力する外はないでしょう。

ご教歌に
中々にあゆまれぬ子は背におい つれて行くこそ親心なれ 

昭和42年5月発行 乗泉寺通信より


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